宮本輝「血脈の火」の風景(その2)
熊吾の新事業と伸仁の小学校生活
熊吾は思いついた3つの商売(消火用ホースの修繕・雀荘・中華料理店)を同時に立ち上げました。他にも観音寺のケンというヤクザ者との出会いや周栄文の娘・麻衣子とその夫・井手とのトラブルなどがあり、熊吾は公私ともに忙しい毎日を送ります。一方、伸仁は小学校の友人だけでなく大人の知り合いも増やし、逞しく生きる姿が描かれています。
小学校初日
「親子三人で、土佐堀川を渡ったところにある銭湯へ行き、夜道をゆっくり歩いて帰宅しながら、熊吾は伸仁が初めてひとりでバスに乗って学校へ行った日のことを思い出し、声をあげて笑った」
とあります。
下に引用させていただいたのは昔の船津橋の写真です。船津橋の右側の角度が変わるところからは土佐堀川にかかる端建蔵橋でしょうか。こちらの道を熊吾たちが銭湯から戻ってくるところを想像してみましょう。
出典:大阪市役所公式サイト、船津橋(ふなつばし)
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000026380.html
銭湯からの帰り道、熊吾と房江は伸仁の登校初日の話をします。
「最初の日、房江は伸仁に気づかれないように、そっと同じバスに乗り、伸仁が小学校の校門に入るまで、ずっとあとを尾けて行った」
とのこと。
当時のバスは運転手と車掌さんの2人体制で運行し、特に女性車掌はバスガールとも呼ばれていました。下に引用したのは1956年(昭和31年)ごろ、渋谷駅行きのバスを洗車するバスガールの写真です。
出典:東京都交通局, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Female_worker_washes_Bonnet_Bus_in_Tokyo.png
バスの中では
「誰の目にも、初めて登校する小学一年生に見えた。帽子も服もランドセルも、伸仁には大きすぎて、その姿は、周りの通勤客たちの笑いを誘った」
とあります。
以下、バスの中での通勤客との会話を抜粋してみましょう。
伸仁「ぼく、小学校の一年生や。きょう、初めて、曾根崎小学校へ行くねん。大阪駅に着くまでは、どこにも降りたらあかんて、お母ちゃんが言いはってんで」
初老のサラリーマン「きみは、そのランドセルのなかに入りそうやな。帽子、ぶかぶかや。もっと小さいのを買うてもろたらよかったのになァ」
伸仁「これが、一番、小さかってん。僕のお父ちゃんは、社長やねん」
初老のサラリーマン「へえ、そらまた失礼しました。きみのお父さんは、どんな会社の社長さんなんや?」
伸仁「ジャンクマの社長や・・・・・・ぼくの家は、大きなビルで、水洗便所が三つもあるねん」
初老のサラリーマン「百貨店みたいな家やなァ」
出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、(大阪府女子師範学校)附属小学校児童登校
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=c1875001
その後も「気がふれた浮浪者」に話しかけられたり「足腰のたたないほどに酔っ払った男」に脅されたりしながらも、なんとか小学校に到着します。
上に引用させていただいたのは昭和初期に小学校の門をくぐる生徒たちの写真です。ここでは、遠くから見守りながらほっとしている房江の姿をイメージしてみましょう。
テントパッチ工業株式会社
熊吾は「テントパッチ」と名付けた接着剤を利用して消防用ホースを修繕する会社を設立します。きっかけとなったのは、房江の姪・直子の愛人の消防局員から、水圧で破れた消火用ホースが山積みになって困っていると聞いたことです。熊吾は、筒井医師の義弟・琴井鉄次が発明した接着剤でホースを修繕することを思いつき、実験により消防局の幹部たちを納得させました。
出典:帝商株式会社公式サイト、消防用ホースの歴史
https://www.teisho.co.jp/corporate/history-of-hose.html
上には消防用ホースでトップシェアを維持する帝国繊維製ホースの1950年~59年頃のカタログを引用させていただきました。
熊吾は琴井鉄次と面談して販売権の半分を買い取り、
「ビルの3階に事務所を設け・・・・・・若い男の社員を3人雇った」
とあります。
ジャンクマ
更に、ビルの1階には「ジャンクマ」という雀荘を営業開始します。麻雀は大正末期から昭和初期、文士の久米正雄氏や洋画家・松山省三氏などの影響によりブームとなりました。戦時中は一時衰退しますが、生活の余裕も少し出てきたこの頃には雀荘の需要も大きかったと思われます。
出だしは順調で
「雀荘は開店三日後に満員になった」
とのことです。
出典:忠孝之日本社編輯部 編『新日本写真大観』,忠孝之日本社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102 (参照 2024-06-18、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102/1/90
上には昭和初期の賑わっている雀荘の写真を引用しました。こちらの写真のなかに
「人数の足りない卓の相手をして」
頭をひねる熊吾を探してみましょう。
中華料理店・平華楼
また、「台湾から日本に来て、神戸の中華街でコックをしている呉明華という四十歳の中国人」を雇い、「平華楼」という中華料理店をビルの二階に開店します。
「腕のいいコックだったが、腕が良すぎて、何もかもを日本人向きの味に変えようとする経営者と意見が合わず、熊吾の引き抜きに応じた」
とのことです。
呉「私の広州料理は一流ね。だけど、炒飯、ラーメン、肉団子、春巻、フーヨーハイは、日本人好みの味にする。ここは、中華街じゃないね。昼は、出前が多い。ワンタンスープ付きの炒飯はどうかな。きっと、うけると思う」
熊吾「それはええ考えじゃ。焼きそばにも、ワンタンスープを付けるっちゅうのはどうかな」
呉「それ、とてもいい。私、もっとたくさんワンタンの準備します」
出典:写真AC、五目チャーハンとワンタンスープ
https://premium.photo-ac.com/main/detail/23311965&title=%E4%BA%94%E7%9B%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%97
上には美味しそうな炒飯とワンタンスープの写真を引用させていただきました。以下は初日の様子です。
「十二時前に、中華料理屋の電話がひっきりなしに鳴り始めた。どれも、電電公社や近辺の会社の事務局からの出前の註文だった。出前だけでなく、昼食を食べに来た客も店にひしめいて、熊吾は、雇ったばかりの二人の従業員と房江に店内をまかせ、自分は岡持を持って出前に行かねばならなかった」
このように熊吾の商売は3つともまずは順調にスタートしました。
観音寺のケン
学校まで無事に通えるかどうかを心配された伸仁ですが、短期間でたくさんの知人や友人を作ります。その中の一人が「観音寺のケン」というこの周辺を縄張りにするヤクザでした。
伸仁「この辺の顔利きは、観音寺のケンさんやねん。こないだ、花火を買うてくれはってん」
さらに
「観音寺のケンさんは、人を六人も殺し、いままた七人目を殺すために神戸へ行った」
といいます。心配した熊吾はこう言います
「・・・・・・観音寺のケンさんとは、頼むけん、今後、おつき合いせんようにしてやんなはれ」
そんなある日、熊吾は「観音寺のケン」と対面することになります。場所は顔見知りの馬車引き・坂田照夫に連れられて入ったおでん屋でした。
ちなみにケンの姿は
「髪をポマードでオールバックにし、もみあげを長く伸ばし・・・左の顎に火傷の跡があったが、どこか理知的な目をしていた」
とあります。
昭和40年公開「日本侠客伝浪花篇」の高倉健さんの写真を引用して、「観音寺のケン」の姿をイメージしてみましょう。「日本侠客伝」は東映やくざ映画の代表的なシリーズ作品で、高倉さんの出世作ともされています。
出典:東映京都俳優部, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ken_Takakura_-_Nihon_Kyokakuden_Series_2.jpg
ケン「おっさん、ノブちゃんの親父やな」
熊吾「おお、そうじゃ。わしが伸仁の親父じゃ。あんたは誰じゃ」
ケン「駆け出しの渡世人や。どこへ行っても、観音寺のケンでとおってまっせ」
熊吾「わしの息子を、えらい可愛がってくれるそうやの」
ケン「あのチビ、おもろいやつねん」
熊吾「ほう、わしの息子は、おもろいか。どこが、どうおもろいのかのお・・・・・・」
ケン「泣き虫のくせに、物おじしよれへん。自分のもんをみんな友だちにやってしまいよる。友だちに遊んでもらいたいからや。俺も、ちっこいとき、そうやった。俺も、兄妹がいてへんかったから、ノブちゃんが、なんで、自分のもんを、みんな友だちにやってしまうのか、身につまされるんや」
熊吾「ひとりっ子が寂しがっちょることに身につまされる人間が、なんで小商いの連中からショバ代をむしり取るんじゃ」
ケン「俺は、他のあこぎややつらから、俺のしまの連中を守ってやってるんや。正当な報酬を頂戴してるんや」
出典:東映京都俳優部, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Koji_Tsuruta_-_Nihon_Kyokakuden_Series_3.jpg
上には日本侠客伝シリーズの第3作「日本侠客伝関東篇(昭和45年公開)」から、高倉さんと並んで人気のあった鶴田浩二さんの写真を引用しました。
井手と麻衣子
丸尾千代麿夫婦の家で世話になっていた麻衣子(地の星の風景その4・参照)は、京都大学で助手の仕事を得た井手秀之と籍を入れていました。
ある日、井手から麻衣子が家出をしたとの知らせを受けた熊吾と千代麿は、麻衣子の居場所を突き止め、彼女を問い質します。すると、
麻衣子「秀之さんは、私に嘘をついて、前の奥さんと、しょっちゅう、京都で逢うてる」
「百万遍の交差点で市電を待っていると、大学の幾つもある研究棟の一角から、夫と、夫の前の妻とが並んで出てきた」
とのこと。
熊吾「そんな男とは、別れてしまえ」
出典:今昔物語、百万遍の北行安全地帯から南を望む
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=2969
京都には明治28年から昭和53年まで市電が走っていました。上に引用させていただいたのは昭和51年ごろの京都大学前「百万遍」電停周辺の写真です。ここでは、井手に弁当を届けに来た麻衣子が電停近くで井手と元妻の会話を聞いてしまう場面を想像してみます。
井手の元妻「また、来週くるがや」
井手「お父さんやお母さんに知られたら、大変やぞ」
そして、井手は「今度は泊まりがけで来たらどうかと」すすめます。
井手の元妻「そんなことしてもええがや?」
旅行などの情報
百萬遍・知恩寺
麻衣子が井手の不倫現場を目撃した「百万遍」は知恩寺の俗称です。そのユニークな名前は、疫病をおさめるために知恩寺の住職・空円上人が百万遍の念仏を唱えたことに由来します。
御影堂や釈迦堂、阿弥陀堂といった9棟の建物は江戸時代に建てられ、国指定重要文化財にも指定される見どころです。また、下に引用させていただいたように毎月15日には手作り市が開催されます。雑貨やスイーツ・パンなど多彩なお店が出店されるので、スケジュールを合わせてお出かけになってみてください。
出典:百万遍・梅小路手づくり市公式サイト
https://www.tedukuri-ichi.com/
基本情報
【住所】京都府京都市左京区田中門前町103
【アクセス】京都駅からバスで約30分
【参考URL】http://chionji.jp/
哲学の道
麻衣子が家出をして宿泊していたのは銀閣寺の近くにある旅館で、
「疏水沿いの黒塀に囲まれた二階屋」とのこと。琵琶湖疎水沿いに続く「哲学の道」を歩くと、「血脈の火」のシーンを想像しやすいかもしれません。
「哲学の道」は京都大学で研究をしていた哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)などが散歩をしながら思索した場所として知られています。
上に引用させていただいたように春は桜、秋は紅葉、冬は雪景色など、季節ごとの美しい風景が見られるのも人気のポイントです。約2kmの歩道の周辺にはおしゃれなカフェやショップも点在するので、休憩しながら散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】京都府京都市左京区浄土寺石橋町~若王子町
【アクセス】京都駅からバス乗り換え、銀閣寺道で下車
【参考URL】https://tetsugakunomichi.jp/