内田百閒「第三阿房列車」の風景(その4)
菅田菴の狐・松江阿房列車
昭和29年11月、今度は大津(2泊)と松江(2泊)と巡り、大阪で2泊して帰る鉄道旅に出ました。特急「はと」、急行「いずも」と乗り継ぎ、車窓からの景色を満喫。琵琶湖や宍道湖をゆったり眺め、地元の食べ物とお酒を堪能します。また、先生一行は「怪談のふるさと」ともいわれる松江で不思議な体験をすることに・・・・・・。
大津で宿泊
横浜駅の先で食堂車からボイに取って来てもらったサンドウィッチを食べますが、夜の一盞を美味しくするためにお酒は控えます。丹那隧道を通り抜け、名古屋で電気機関車から蒸気機関車につけ換えるなどして京都に到着。特急「はと」が停車しない大津へは普通列車に乗り換えて戻りました。
下に引用させていただいたのは昭和時代の大津駅の写真です。もしかしたら、こちらのタクシーに先生一行が乗っていたかもしれません。
大津の宿からの風景
先生が大津で宿泊した旅館については明記されておらず、「湖水に面した座敷」や「比叡山の翠巒(すいらん)をささ波がひたしている」などの景色が描かれているのみです。ですが、「レファレンス協同データベース(*1)」によると百閒先生が宿泊したのは「獅子吼旅館」とのこと。下には関連する部分を引用させていただきました。
*1)国立国会図書館が全国の図書館などと協同で構築するデータベース
昭和29年(1954)11月に作家の内田百閒(うちだひゃっけん)が大津に宿泊している。その際に泊まった「獅子吼旅館」のことを知りたい。場所は旧「北保町」、現在は観音寺二丁目の湖に面した京都市水道局の敷地内だったと思われる。(中略)
出典:レファレンス協同データベース
1 獅子吼旅館について
『大津市住宅案内図』(1966年発行)に「KKししく旅館」として記載があります。場所は、観音寺町2-1(三方琵琶湖を見渡せる位置)に立地しています。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000166220
先生の見た風景をイメージするために、近くの道路からのストリートビューを掲載しておきます(観音寺四丁目付近)。「宿屋の廊下の安楽椅子」からこのような景色を見ながら、京都に住む亡友が琵琶湖について「あんな明かるい、白ら白しい湖と云うものはない」と語ったことや、「中学を出て高等学校へ這入る間の夏休み」に比叡山に登ったこと、などの遠い記憶を思い起こしていたのでしょうか。
滋賀観光へ
大津の宿での2日目は市中観光のためタクシーを呼んでもらいます。どこに行くかを決めていない先生たちに対し運転手は「三井寺、石山寺、瀬田の唐橋」の3か所を候補として挙げました。「それじゃ、その中で一番遠い所にしよう」という先生に対し、「それでしたら石山寺から瀬田の唐橋です」と運転手は応えます。
行ってはみたものの、石山寺は参道の石畳を歩いただけで引き返し、瀬田の唐橋はタクシーに乗ったまま「こっちから向こうへ渡り、向こうからこっちへ引き返してそれでお仕舞にした」と観光は短めです。下には先生が見たのと同じと思われる大正13年築の唐橋の写真を引用しました。
出典:忠孝之日本社編輯部 編『新日本写真大観』,忠孝之日本社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102 (参照 2024-02-15、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1112102/1/52
瀬田唐橋は昭和54年に架け替えられていますが(下写真)、周辺になじんだ美しい景色は昔とあまり変わっていないのではないでしょうか。
出典:Bakkai, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Setagawa%EF%BC%88Yodogawa%EF%BC%89_Karahashi.jpg
見つけられなかった桜井駅跡
大津から汽車に乗り込んだ先生は京都・大阪間で「一本の棒杙(ぼうくい)」を探して「頸の筋が痛くなる程、線路に近い田圃(たんぼ)を見つめた」とあります。探していたのは楠木正成が息子・正行と別れた「桜井駅跡」の標木でした。
下には大正3年ごろの桜井駅跡の写真を引用させていただきました。特に奥側に見える乃木希典書「楠公父子訣別之所の碑」は三方を濠で囲んだ盛土の上に建てられ、入口には橋が掛けられた立派なものだったようです(現地の説明書きより)。
後に先生は「敗戦の騒ぎの時」、標木が抜かれたのではと推測しますが、ここでは杙(くい)が見当たらなず「もう萬事(ばんじ)休す」と残念がる姿を想像しておきましょう。
出典:大阪府 編『大阪府写真帖』,[大阪府],大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966056 (参照 2023-12-06、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/966056/1/144
余部の絶景?
福知山から山陰線に入ると「車窓から見た余部(あまるべ)の鉄橋の恐ろしさが後々まで悪夢のように忘れられない」といい、「三十年前の悪夢をもう一度見よう」と身構えます。下に引用させていただいたのは昭和53年ごろに撮影された余部鉄橋の写真です。こちらの初代鉄橋は明治45年に竣工し、平成22年(2010年)まで使われていました。ちなみに鉄橋を走行しているのは先生たちが利用した急行「いずも」の後継・寝台特急「出雲」です
こちらの車内では先生が「下まで四十一米(メートル)あると云う。矢張り遥か底の方に人家の屋根があり、右手に日本海の白浪が寄せている。しかし、お天気が良くて、真っ昼間で、四辺が明かるい所為(せい)か、それ程こわくない」と、前回とは違う感想を抱いていました。
出典:Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%A4%98%E9%83%A8%E9%89%84%E6%A9%8B1978-02.jpg
宍道湖を望む旅館
夕方の「五時三十九分に松江に著いた。ホームに暮色が流れていたが、空はまだ薄明かりを湛え、何となくぼかした色の中へ這入った様な気がした」とあります。
ホームで待っていた駅長などから「中国山脈の夕焼けが今消えるところです。早く致しませんとなくなりますから」とせきたてられ、「お宿の正面」から宍道湖の夕焼けを見るようにすすめられます。この時、先生が宿泊したのは、今も続く老舗旅館・皆美館であったかもしれません(公式サイトに宿泊者として明記)。
皇族方がご宿泊され、その他、芥川龍之介、河井寛次郎、高浜虚子、川端康成、岡本太郎、小泉八雲、里見弴、田山花袋、大町桂月、志賀直哉、武者小路実篤、佐藤春夫、内田百間、尾崎士郎など多くの著名な文化人、政財界人、芸術家が訪れるようになった。
出典:皆美館公式サイト
https://www.minami-g.co.jp/minamikan/about/
下には昭和16年「全国旅館名簿」に掲載された皆美館の写真を引用させていただきました。こちらの写真のなかに先生と山系君の姿を置き、宍道湖の向こうに夕日が沈むシーンを想像してみましょう。
出典:旅館研究会 調査・編纂『全国旅館名簿』,旅館研究会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104 (参照 2023-12-06、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1033104/1/363
松江のごちそう
松江についた先生たちは芸妓(げいぎ)の安来節などを聴きながら食事を楽しみます。同席の何樫(なにがし)さんから、鱸の奉書焼をすすめられ、実は「(赤壁の賦の)松江之鱸から取って、松江の町の名が出来た、つまり、松江の地名は赤壁の賦(*2)に由来する」と説明を受けた先生は「山系さん。それじゃ我々は鱸を食わなければいかん様だ。松江の鱸をネグレクトして帰ると、出雲の神様から文句がでるかも知れない」といいます。
下にはスズキの奉書焼きの写真を引用させていただきました。ここでは、奉書を開いてお酒とともに美味しそうに食べる先生たちの姿をイメージしてみましょう。
*2)中国の詩人・蘇軾が三国志の古戦場「赤壁」を思って景色や心情をつづったもの。
神様もピリピリする時期
旧暦の10月(神在月)は全国から出雲に神様が集まるとされる時期です。「昨今は神様の気が立って居ります・・・・・・毎晩毎晩会議続きでして」とのこと。また「夕方暗くなってから、ぼんやり町の角を曲がると、神様と出合頭にぶつかります」ということもあるそうです。
神様の話を聞いたせいか、「松江と云う町が静か過ぎる」せいか、夜更けの小さな音が気になる先生でしたが、「瞼の裏に夕方ここに著いた時、湖の向うの山波の上に消えていった夕焼けの赤い色が、ありありと戻ってくる様」を思い出しながら眠りにつきます。下のような風景だったでしょうか。
出典:yogiyogi, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimane-Evening_scene_at_the_shores_of_Shinji_Lake_-xl.jpg
松江観光に案内されたが
次の日も松江泊のため、山系君・何樫君の案内で市中観光に出かけました。ところが「町中を通ってお城に行き、自動車からは降りずにお濠端を走った」「ラフカディオ・ヘルンの旧趾の前で、車を降りた。・・・・・・入口の土間の前に起っただけで、車に引き返した」「不昧公にゆかりのある茶室・・・・・・菅田庵ではお茶を立ててすすめると云う。お茶を立てられては却って恐縮だから、まあよそう」などと消極的です。
このように「元来私は松江に見物に来たのではない」という「阿房列車」らしい態度が原因となり、ある人(?)から「人がわざわざ案内すると云う所を見もしない」とののしられることに・・・・・・。ここでは下に引用したような松江城を、車の窓から見上げる先生を想像しておきましょう。
出典:江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matsue_Castle5.jpg
念願の動物園へ
松江から東京に戻る途中、一行は大阪で二泊しました。先生はそのなか日に「それでは、だ、動物園へ行こうか・・・・・・この前の時、風を引いて果たさなかったからね」と山系君を誘います。「この前」とは熱を出してダウンした四国阿房列車(第三阿房列車の風景その3・参照)のことです。
下には最近の天王寺動物園のライオンの写真を引用させていただきました。「ライオンがいた。体が大きく鬣(たてがみ)も立派で、申し分のない威容を備えている」などの感想を抱きながら、動物園をめぐる先生の姿を「松江阿房列車」のラストシーンとします。
出典:Jin Kemoole, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tenn%C5%8Dji_Zoo_DSCN2710_(34373920752).jpg
旅行などの情報
瀬田の唐橋
百閒先生がタクシーから眺めた観光地です。旅館に呼んだタクシー運転手が石山寺や三井寺と並べて挙げたほど当時から有名なスポットで、近江八景の一つにも数えられています。
現在の橋は昭和54年にリニューアルしたものですが、擬宝珠(ぎぼし)は江戸や明治のものを再利用していて、当時の様子を偲ぶことができます。
基本情報
【住所】滋賀県大津市瀬田から唐橋町
【アクセス】京阪唐橋前駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.biwako-visitors.jp/
桜井駅跡
百閒先生が汽車から見つけられなかった史跡です。小説中に出てくる「標木」は撤去されてしまったようですが、陸軍大将・乃木希典や海軍大将・東郷平八郎の揮毫による石碑などは今でも残されています。
南北朝時代に足利尊氏軍との決戦に向かった楠木正成が息子・正行と別れた場所とされるところで、下に引用させていただいたような別れをイメージした石像も設置されています。
基本情報
【住所】大阪府三島郡島本町桜井一丁目
【アクセス】JR島本駅からすぐ
【参考サイト】http://www.pref.osaka.lg.jp/
松江城
松江城は松平家などが治めた松江藩の中心となるお城で、天守閣は現存12天守の一つとして国宝にも指定されています。大手前から本丸までを城攻めの気分で探検するのもよし、遊覧船でゆったりとお堀巡りをするもよいでしょう。
天守閣内への入場も可能で、最上階にある天狗の間からは、宍道湖や松江市内の360度の眺望を楽しめるでしょう。ほかにも迎賓館として使われた「興雲閣(下に引用)」や縁結びスポットの「ハートの石垣」など多彩な見どころがあります。
出典:Travis, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Entrance_2F_of_Kounkaku.jpg
基本情報
【住所】島根県松江市殿町1-5
【アクセス】JR松江駅からバスに乗りかえ、国宝松江城で下車
【参考URL】