内田百閒「贋作吾輩は猫である」の風景(その6)

三鞭酒(シャンパン)が待ち切れない!

第七は「出田羅迷君が長い顔をして来ている」と訪ねてきた教え子をいじるところから始まります。狗爵舎君が入手した三鞭酒を五沙弥先生の家で一緒に開けようという趣向ですが、当の本人がなかなか現れません。その間に、行兵衛君や飛騨里風呂君が初登場。さらにレギュラーメンバーの風船画伯もやってきて賑やかになっていきます。

シャンパンは貴重品

出田羅迷君は「先生、この猫は段段顔が長くなる様じゃありませんか」と、先生にいじられた仕返しを「吾輩」に対して行います。

また、「先生がおひまだったら、狗爵舎が狗爵舎に三鞭酒(シャムパン)を一本持っているのです。」というと「何、三鞭酒だって」と「今まで退屈そうに受け答えをしていた五沙弥入道はヒンツェが二十日鼠の話を聞いた様な顔をした」と態度が急変。江戸時代末期に販売が開始された三鞭酒ですが、戦後日本ではまだ貴重な飲物だったようです。

長崎では1860(万延元)年にアーノルド商会が、横浜では1861(文久元)年にO.H.ベーカー商会が、それぞれワイン、シャンパンなどを売り出している。

出典:キリンホールディングス株式会社公式サイト
https://museum.kirinholdings.com/history/cultural/01.html

シャンパンに関する出来事

先生が昔、勢いよくシャンパンの栓を抜いたときの話題になり、「栓が鉄砲の玉の様な勢いで飛んで行って、そら、あの額のあすこの所に穴があいているだろう」と、出田羅迷君の頭の上にある「煤けた細長い掛け軸」を指さします。賀知章という唐代の有名な詩人の作で「題袁氏別業(袁氏の別荘にて)」という詩の一部が抜き出されていました。

下に引用させていただいたように全文は「主人~有銭」までの4句からなる五言絶句で以下のような内容になります。
「主人とは面識がありませんが、向かい合って座っているのは庭園がきれいだからです。酒の心配はいりません。財布があれば自然と銭も出て来ましょう」

掛け軸は「莫謾愁沽酒 嚢中自有銭」とあり、先生らしく(?)お酒の部分だけを切り出しています。ここでは「落款のを外れた所の紙が凹んで、小さな穴が出来ている」掛け軸の様子を想像してみましょう。

出典:[李攀龍] [編選]『唐詩選 : 四聲並假名附』終 (五七言絶句),[嵩山房],1867. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3460037 (参照 2023-10-28)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3460037/1/2

行兵衛(スウィンピンウェー)君

「立てつけの悪い玄関の戸が、ぎしぎしと開いた」ため、三鞭酒が来たかと思っていってみると満鉄(南満洲鉄道)に勤務していた行兵衛君でした。五沙弥先生は「なぁんだ、スウィンピンウェーか」と残念がります。

「スウィンピンウェー」は「あっちの言葉ではだね、行兵衛の事をそう云うんだそうだ」とのこと。下に引用した満州語の資料では「行=シン(下画像中央部)」「兵=ピン(上画像上部)」「衛=ウエイ(上画像上部)」となっています。発音によっては「スウィンピンウェー」となりますね。

なお、発行されたのが日露戦争の最中だったこともあり、例文に「銃」や「刀」など物騒な単語が頻繁にでてくるのも、現在の教科書と違うところです。

出典:『満洲語会話一ケ月卒業』,石塚猪男蔵,明37.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/869592 (参照 2023-10-27)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/869592/1/8(上、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/869592/1/17(下、一部加工)

満鉄のあじあ号

行兵衛君が勤務していた満鉄は鉄道経営だけでなく港湾や農業、炭鉱、製鉄、ホテルといった多角的な分野を網羅した組織でした。その満鉄の象徴の一つが下に引用させていただいた「あじあ号」です。

無駄のない流線形の姿は75年以上も前のものとは思えません。ハルピンと大連間の約950km(東京・京都を往復する程度)を結んだ高速列車で新幹線の原型ともいわれています。

出典:松村好文堂 編『全満洲名勝写真帖』,松村好文堂,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1207357 (参照 2023-10-26)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1207357/1/8

飛騨里風呂君が登場

常連の風船画伯が現れた後に「袴垂保輔(はかまだれやすすけ)が風を引いたような顔をして飛騨が這入ってきた」とあります。そして「飛騨君は人事院の新官僚であり、又里風呂(りぶろ)と号し、新人作家としても評判がいいそうである」とのこと。

ちなみに、飛騨里風呂のモデルは百閒先生の弟子・平山三郎氏(「阿房列車」の風景その1参照)とされています。下に引用させていただいたのは盗賊・袴垂(右側)が藤原道長の四天王の一人・藤原保昌をつけねらう絵です。ここでは一見強面ながらも、愛嬌も含んだ里風呂君の顔をイメージしてみます。

出典:竹内栄久 編『[絵本]』〔1〕 本朝英勇鑑,島鮮堂,明18.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/884106 (参照 2023-10-30)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/884106/1/8

飛騨里風呂君の結婚式の話

(いつものことですが)話題が転々とし里風呂君の結婚式のことになります。仲人を依頼した先輩の「句寒さん」から「仲人だから当夜の席上でおれがお祝いの謡をうたってやると云いましてね」式の前日にやって来て「その席では矢っ張り前に謡本をひろげた方がいいと思う。これから京橋のわんやまで謡本を買いに行くから、付いて来いと」いわれたとのことです。

下に引用させていただいたのは昭和初期の京橋の写真です。右に見える大きな建物は東京駅の設計などでも有名な辰野金吾氏が手がけた第一相互館です。こちらは戦災にも耐え老朽化により解体されるまで周辺のシンボルとなっていました。

ここでは「省線電車」を降りた後にこの周辺を歩く飛騨君と句寒さんの姿をイメージしてみましょう。

出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3459985 (参照 2023-10-27)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3459985/1/65

わんやで謡曲の本を購入

当時は京橋にあった「わんや」書店で購入したのは下に引用させていただいたような謡本だったでしょうか。謡曲指南書の「高砂」を説明するページで、特に中央部のワキ上「高砂や、この浦船に帆をあげて〜」は夫婦の門出を祝う場面でも使われます。

ここでは里風呂君の結婚式で、句寒君が緊張しながらこの謡本をひろげている姿をイメージしてみます。

出典:矢田正義, 吉沢徳潤 編『謡曲訓蒙図会』1巻,椀屋謡曲書店,明27-36. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/876524 (参照 2023-10-27)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/876524/1/11

旅行などの情報

相互館110タワー

里風呂君などが赤坂で目にしたと思われる第一相互館は昭和44年に解体され、現在は3代目(相互館110タワー)に代替わりしました。2012年に完成した近代的なビルですが、尖塔のデザインは初代を思わせるレトロな雰囲気を残しています。

下に引用させていただいたように1階には第一相互館の模型や実際に使用されていた石材などの展示品を見ることができるので、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

住所:東京都中央区京橋3-7-1
アクセス:東京メトロ銀座線・京橋駅から徒歩約1分.
関連URL:https://www.dai-ichi-building.co.jp/building/4

中央区立郷土資料館

前回は千代田区の歴史博物館を紹介しましたが、赤坂・銀座などがある中央区にも「中央区立郷土資料館」という無料の展示施設があります。2022年に開館したばかりの「本の森ちゅうおう」という図書館を含む複合施設の1階にあり、江戸から昭和までの実物展示のほか、体感型のデジタル展示が多いのが特徴です。カフェも併設しているので休憩スポットとしてもご利用ください。

また、3~5階は約342万冊を所蔵する図書館となっていて、屋上には下に引用させていただいたように立派な庭園も備えています。

基本情報

住所:東京都中央区新富1-13-14
アクセス:東京メトロ日比谷線・八丁堀駅から徒歩約1分
関連URL:http://www.city.chuo.lg.jp/bunkakankou/bunka/kyodoshiryokan/index.html