太宰治「人間失格」の風景(その1)

三枚の写真と第一の手記

「人間失格」は太宰治の自伝的な中編小説で、亡くなる直前に脱稿されたので遺書的作品ともされています。架空の語り手が「はしがき」と「あとがき」を記し、主人公(太宰治≒大庭葉蔵)の手記をはさむ形式で描かれています。今回は「まえがき」と「第一の手記」の部分をメインに小説の風景を追っていきましょう。

はしがき

時代背景

太宰治氏は1909年(明治42年)の生まれで本名は津島修治さん。姉が4人・兄が2人の末っ子(のちに弟1人)として大切に育てられます。引用文のように芥川賞候補などにもなり小説家として活躍しますが、1948年(昭和23)に38歳の若さで生涯を閉じました。

ちなみに本ブログで紹介させていただいた井上靖氏(明治40年生まれ)とほぼ同世代で第一の手記(幼少年)から第二の手記(青年)で描かれる時代は井上靖氏の「しろばんば(の風景・参照)」や「夏草冬波(の風景・参照)」、「北の海(の風景・参照)」の時代に対応します。

小説家。明治の新興地主の家に生まれ、昭和5(1930)年上京。東京帝大仏文科中退。井伏鱒二(いぶせますじ)に師事。昭和10(1935)年『逆行』が芥川賞候補となる。戦後、『斜陽』(1947)、『人間失格』(1948)等を執筆、無頼派などとよばれた。23(1948)年6月、玉川上水で入水自殺した。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」太宰治
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4149

生まれ育った環境

世代は同じですが、少年時代の井上靖が父や母のもとを離れて伊豆の自然の中で比較的自由に育ったのに対し、太宰治は青森でも有数の大地主の家に生まれ、大家族(や友人)に気をつかいながら生活している様子がうかがえます。

下には太宰自らが語った、性格形成についての抜粋をさせていただきます。

私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人ひとからみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。

出典:青空文庫「わが半生を語る」、太宰治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1601_18118.html

大地主だった生家は現在では「斜陽館」という観光施設として整備され、入場・見学が可能です。下に引用させていただいたような赤屋根の豪邸で、敷地内には大きな庭園も備えています。ここでは、池のほとりで姉たちと一緒に遊ぶ、あどけない葉蔵の姿を想像してみましょう。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/3804043&title=%E6%96%9C%E9%99%BD%E9%A4%A8%EF%BC%88%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8%EF%BC%89

第一葉の写真・不思議な表情の子供

「人間失格」のまえがきは「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」という語り手の言葉から始まります。一葉は「十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとにかこまれ・・・・・・醜く笑っている写真」。さらに「まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ」ともいいます。

下に引用させていただいたのは太宰治さんの少年時代の写真です。確かに笑ってはいますが、少し硬直しているようにもみえます。

出典:太宰治 著『太宰治』,文潮社,昭和23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1069452 (参照 2023-11-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1069452/1/4

ちなみにこの頃の葉蔵は、下に引用させていただいたように優等生として「尊敬され」、そのことが本人を落ち着かない気持ちにさせていました。

大正五年(1916)七歳
(中略)金木第一尋常小学校に入学。一年時から秀才の誉高く、特に意表をつく作文力で教師を驚かす。在学中全甲首席、総代を務めた。

出典:太宰のふるさと 太宰ミュージアム

第二葉の写真・不思議な美貌の青年

第二葉の写真は「高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である」と説明します。下に引用させていただいたの太宰治氏が昭和四年(1929年)、二十歳のときに「小菅銀吉」なるペンネームで活動をしていた頃の写真。「いい男だろ!」とほほえみかけているようにみえます。

出典:出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 、太宰治
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4149


語り手はさらに「(一葉のような)皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、人間の笑いと、どこやら違う。・・・・・・どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである」と細かく解説します。ちなみにこの頃にはすでに優等生コースからは外れていたようです。

昭和三年(1928)十九歳
学業成績、急激に下降す。(中略)

昭和四年(1929)二十歳
(中略)小菅銀吉・大藤熊太の筆名で創作や評論を発表する。「鈴虫」「哀蚊」「虎徹宵話」「花火」などを発表。
一方青森で芸者紅子(小山初代)と逢う瀬を重ねる。

出典:太宰のふるさと 太宰ミュージアム

第三葉の写真・不思議な男の顔

最後の写真は「まるで、もうとしの頃がわからない・・・・・・こんどは笑っていない。どんな表情もない。・・・・・・不吉なにおいのする写真であった」といい、「この顔には表情が無いばかりか、印象さえない・・・・・・見るものをして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ」とも記しています。

下には晩年のものと思われる太宰治氏の写真を引用させていただきました。

出典:出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」、太宰治
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4149

第一の手記

獅子舞のおもちゃの話

父が上京するとき「子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人一人に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖に書きとめる」という場面があります。

「二者選一の力さえ無かった」葉蔵は「浅草の仲店にお正月の獅子舞のお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」との質問に対し、もじもじして回答できません。

父の機嫌を損ねたことを気に病んだ葉蔵は「そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて・・・お土産の注文記入の箇所を見つけ・・・シシマイ、都会て寝ました」とあります。

下に引用させていただいたのは明治43年ごろの浅草・仲見世の写真です。ここでは葉蔵の父がおもちゃ屋の店先にて、手帖を見て笑う姿を置いてみましょう。

出典:『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』[2],尚美堂,明43.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764233 (参照 2023-11-06)
https://dl.ndl.go.jp/pid/764233/1/10

少年時代に読んだ本

「自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて・・・・・・メチャラクチャラ博士だのナンジャモンジャ博士などとは、大変馴染で、・・・・・・剽軽な事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした」と語ります。

ちなみにメチャラクチャラ博士とは現・講談社の子供向け月刊誌・少年倶楽部、ナンジャモンジャ博士は同社の少女倶楽部のキャラクターです。どちらも、ハガキによる質問に対し面白おかしく回答することで人気がありました。

なお、当時人気だった少年雑誌としては「少年倶楽部」や「日本少年(実業之日本社)」、「子供之友(婦人之友社 )」などがありました。下に引用させていただいたのは大正二年の「日本少年」に掲載された竹久夢二の挿絵です。葉蔵もこのような絵を見ていたかもしれません。

出典:岩田準一 編『夢二抒情画選集』下巻,宝文館,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688915 (参照 2023-11-02)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1688915/1/91

旅行などの情報

斜陽館

太宰治の父・津島源右衛門が明治40年につくった建物で、太宰は旧青森中学に入学する13歳までをこちらで過ごしました。現在は「斜陽館」として一般にも開放され、本人着用のマントや直筆原稿などが展示されています。

1階に11室、2階に8室もある豪邸の内部は下に引用させていただいたように見どころも多く、池を配した立派な庭園も鑑賞できます。斜陽館の前には太宰グッズを扱う売店や、レストランもあるので併せてお立ち寄りください。

基本情報


住所:青森県五所川原市金木町朝日山412-1
アクセス:津軽鉄道金木駅から徒歩約7分
関連URL:http://www.kanagi-gc.net/dazai/