宮本輝「流転の海」の風景(その7最終回)
熊吾の決断
熊吾は有馬温泉への山道で出会った青年(流転の海の風景その4・参照)の婚約者を訪ねました。そしてこの婚約者が熊吾と辻堂の関係にひびを入れることになります。そんな折、伸仁が病気を併発して瀕死の状態になり、房江も急病で倒れました。部品調達も困難になる中、大阪で事業を続けるか、地元の愛媛で伸仁を丈夫に育てるかの選択を迫られた熊吾は・・・・・・
北沢茂吉のこと
辻堂「例の金のことですが、渡す相手がみつかりました・・・・・・北沢茂吉という人の婚約者です。精栄海運の社長の娘です」
海老原太一にお灸をすえた熊吾が山の中に取り残されたとき、有馬温泉まで(闇物資の入った)荷車に乗せてくれたのが北沢茂吉で、熊吾は戦犯として逮捕された北沢の代わりに闇物資の代金を受け取っていました。
出典:(Unknown), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_civilians_listening_to_the_surrender_broadcast.jpg
熊吾「精栄海運の社長っちゅうたら、元子爵の岩井道太郎やないか」
辻堂「ええ、玉音放送のあったあくる日に首をつった、あの岩井道太郎です。北沢茂吉さんは、遺された奥さんと娘さんを、闇屋をやりながら養ってたみたいですね」
上には玉音放送時の写真を引用しました。戦争に負けた悔しさや今後敵国からどのような仕打ちを受けるかという不安、戦争が終わってほっとした安堵感など、受け取る側の思いは複雑だったことでしょう。
岩井亜矢子
熊吾と辻堂は北沢の婚約者が住む芦屋に向かいます。
熊吾「大きな屋敷がたちはじめたのお」
辻堂「みんな、進駐軍のおえら方の住まいとか、やつらの娯楽用の倶楽部ですよ」
下には芦屋市のなかでも高級住宅地として知られる六麓荘町にあった「芦屋国際ホテル」の写真を引用させていただきました。こちらの風景のなかに戦災前の「岩井道太郎」の邸宅があったかもしれません。
出典:芦屋市役所公式サイト、芦屋 思い出写真館【現存する芦屋のモダニズム建築】、旧国際ホテル(昭和12年)
https://www.city.ashiya.lg.jp/kouhou/omoide/modernism-04.html
住所を頼りにやっと岩井邸に着くと
「かつては誰かの邸の贅を尽くした庭だったのだろうと思われる空地があった。焼けた庭石とか石灯篭が、雑草のあちこちにその名残を留めていたからである。空地の奥に粗末なバラックの家が建っていた」
とのこと。
芦屋市一帯も下に引用させていただいたように、空襲による大きな被害を受けました。
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ、戦災概況図蘆屋
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000172
バラックの家の戸口から熊吾たちがごめんくださいと声をかけると
「突然、戸が開いた。熊吾も辻堂も後ずさりするほどに唐突な、しかも乱暴な開き方であったが、ふたりの前にあらわれた娘の華やいだ美貌もまた彼らを驚かせたのだった」
とあります。
熊吾「岩井道太郎さんのお嬢さんですか」
娘「いいえ」
怪しまれていると考えた熊吾が言います。
熊吾「わしが、悪人に見えますか。警察の犬に見えますか」
娘「ええ、おふたりとも、刑事さんよりもっと怖い人に見えますわ」
熊吾「わけあって、この金を預かりました。渡す相手がわからんじゃったけん、遅うなったが、確かにお届けしましたけん」
仁清の壺
家の中には娘のほか精神に異常をきたした母が住んでいました。
母「いいお天気になりました。これからまた暑くなりますので、あとでトタン屋根を外して、瓦を載せておいてくださいまし」
熊吾「梅雨があけたのかもしれませんな。きょうは無理じゃが、早いうちに瓦屋根に換えてさしあげましょう」
熊吾が母に話を合わせていると、それをからかわれていると思ったのか
娘「母はご覧になったとおりの人間ですの。相手をして面白いはずはありませんわ」
母「何を言うの。亜矢子はすぐに人に噛みついて・・・・・・。申し訳ございません。主人が亡くなりましてから、もともとのジャジャ馬が、いっそう烈しくなりまして困っております」
部屋の隅には白い布で蓋をされた壺があり、熊吾は娘が何度も視線を向けているのに気付きます。
熊吾「ほう、あの壺は仁清ですな」
江戸時代の陶工・野々村仁清の作品は美しい絵画的な装飾が施されているのが特徴です。下にはMOA美術館が所有する国宝「色絵藤花茶壺」の写真を引用しました。
出典:English: Association of Cultural Properties, Tokyo日本語: 財団法人 文化財協会, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NINSEI_Wisteria_TeaJar_MOA.JPG
母「主人の自慢の品でございます。何もかも焼けてしまいましたが、焼跡の中かあら、箱に入ったあれだけが出てまいりましたの・・・・・・」
亜矢子「骨壺ですの。中に父の遺骨が入っています」
熊吾「中にピストルが入っちょるのを、お母さんは知っとられるのですか」
亜矢子によると婚約者の北沢茂吉は既に絞首刑で亡くなったとのこと。自分の身は自分で守る必要がありました。
熊吾は亜矢子の母の望みどおり、岩井家の補修を辻堂に指示します。実は
「松坂熊吾は、何年か先の己の事業に、どんな実がつくかのかわからぬ種をまいたのではなく、ただ単純に岩井亜矢子という美しい娘に烈しい野心を抱いただけだった」
とのこと。
なお、同時に辻堂も彼女に惹かれていて、このことが熊吾と辻堂との関係に亀裂が入る要因になります。
朝鮮戦争の前夜
「流転の海」の舞台の1948年、韓国と北朝鮮の間には不穏な空気が流れていました。ひとたび戦争が始まればアメリカ兵たちは朝鮮に移動し、進駐軍とのコネを利用した払い下げ部品が入手できなくなる可能性もあり、商売を転換しなくてはなりません。
出典:ブティックセリザワ公式サイト、沿革/創業から現在までの歩み
https://serizawa.co.jp/f/history
上に引用させていただいたのは進駐軍の神戸基地司令部が置かれた「神港ビルヂング」の写真です。ここでは出入りする進駐軍の関係者が朝鮮問題について噂話をしているところを想像してみましょう。
知り合いのアメリカ兵の失脚
年が明けて、昭和24年の2月になると更に悪い知らせがやってきます。部品を払い下げてもらっていたアメリカ兵が横浜基地に配転になったとのこと。熊吾は大規模な横流しがばれたためと推測します。
辻堂「それがばれたんなら、配転どころじゃ済まんでしょう。営倉行きになるか、階級を落とされるか・・・・・・」
熊吾「一年か二年先には、朝鮮の最前線に立たされよる。気の毒に。横浜送りはその伏線じゃあ」
出典:芦屋市役所公式サイト、滴翠美術館
https://www.city.ashiya.lg.jp/kouhou/omoide/modernism-08.html
当時のアメリカ兵たちは都市部から山手に到るまで、幅広い範囲の邸宅を接収していて、上に引用させていただいた旧山口吉郎兵衛邸もその一つでした。アメリカ兵たちは朝鮮での戦いを覚悟しながらも、こちらのような豪華な邸宅で束の間の平和を楽しんでいたのかもしれません。
伸仁が危篤に!
政治や景気の話とは別に伸仁の体の弱さも熊吾の人生設計に大きな影響を与えます。ある時、伸仁は「はしか」と「中耳炎」、「腸炎」を併発し、医者から「ここ1日か2日がヤマ」といわれるほどの危険な状態になります。
房江「伸仁、ここ一日か二日がヤマやろて、お医者さんに言われましてん・・・・・・はしかと中耳炎と腸炎を同時にわずろうてるから、体力がもたんかもしれんて・・・・・・」
熊吾「どうすりゃ助かるんじゃ」
房江「この子の体力次第やろて言いはりますねん」
伸仁に栄養を採らせようとした熊吾は鶏舎にかけこんで一羽の鶏を締め、自家製の鶏スープを伸仁に食べさせようとします。
出典:愛知県養鶏組合聯合会 編『愛知の養鶏』,愛知県養鶏組合聯合会,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/944486 (参照 2024-05-27、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/944486/1/13
養鶏は大正時代のころから上に引用した写真のように農家の副業として国からも奨励されていました。
熊吾がまだ愛媛にいた少年のころ、
「熊吾は、しめ方も、肉のさばき方も本職まがいにうまくて、村のあちこちの家からも、鶏をしめるときは、わざわざ熊吾に頼みにくるほどだった」
とのこと。
ここでは、上の写真の中に伸仁のために鶏を追い回す熊吾の姿を置いてみましょう。
会社をたたんで故郷へ
アメリカ兵からの自動車部品の払い下げの期待ができなくなった熊吾は、ひ弱な伸仁をのびのびと育てたいと考え、会社をたたんで故郷の愛媛に戻ることにします。この記事の最後の風景は事務所の土地を売ったお金を持って熊吾と辻堂が御堂筋を歩く姿とします。下には昭和12年、完成したての御堂筋の写真を引用させていただきました。
出典:道頓堀商店会オフィシャルサイト、昭和12年5月、御堂筋(梅田~難波)が完成。
http://www.dotonbori.or.jp/sp/ja/photo/index.html
「流転の海」のラストシーンは昭和24年の5月半ばです。大阪大空襲からの復興も進み元の姿を取り戻しつつありました。
ここでは、写真のどこかに熊吾たちの姿を置いてみましょう。熊吾は複雑な感情をいだきながらも、信頼する辻堂に向かって
「約束じゃ。わしが死んだら伸仁を助けて、やってくれ。頼んだぞ」
という言葉を残して去っていきました。
旅行などの情報
神港ビルヂング
神戸基地司令部が置かれたビルとして紹介した「神港ビルジング」は昭和14年に川崎汽船の本社ビルとして造られました。シンプルなデザインですが、屋上がアールデコ調の塔屋で装飾されているのが特徴です。下の写真のように夜間にはライトアップも行われ、昼とは異なる姿を見せてくれます。
出典:663highland, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinko_bld04_2048.jpg
また、1階には「Café Rest 8番館」という喫茶店が入っているので、休憩をかねてレトロな雰囲気を楽しんでみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】兵庫県神戸市中央区海岸通8
【アクセス】JR三ノ宮駅から徒歩約10分
【参考URL】https://4travel.jp/dm_shisetsu/11341926
滴翠(てきすい)美術館
「旧山口吉郎兵衛氏住宅」は進駐軍から返却されたのち、昭和39年に滴翠美術館として開放されました。和のテイストも加えた落ち着いた雰囲気の洋館で、晴れた日にはバルコニーから大阪梅田のビル群を望むことができます。
館内には山口吉郎兵衛氏が収集した書画や茶道具などの古美術のほか、上に引用させていただいたような人形やかるたなどの日常品といったユニークな展示があるのも特徴です。なお、夏季・冬季は休館となっていますので、スケジュールを事前確認してからお出かけください。
基本情報
【住所】兵庫県芦屋市山芦屋町13-3
【アクセス】阪急芦屋川駅から徒歩で約8分
【参考URL】http://tekisui-museum.biz-web.jp/
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