井上靖「しろばんば」の風景(その2)

夏休みの始まり

洪作は「湯ヶ島尋常小学校」での2年・1学期を無事終了しますが、成績は落ちてしまいました。普段はおぬい婆さんと2人の生活ですが、夏休みには門野原の伯父(父・捷作の兄)の家や豊橋の父母の家を訪問し、さまざまな体験をします。ここでは大正時代をイメージできる写真を引用しながら「しろばんば」の風景を追っていきましょう。

袴を穿いた少年

終業式の日、村の名士の孫である洪作は、おぬい婆さんに袴を着させられて登校します。下の明治末期の小学校の卒業写真でも着物姿が大半で、袴の学生はまだ少数のようです。

大正時代になっても、大都市圏でない湯ヶ島のような小学校の終業式において袴を着る生徒は稀で、「生徒の視線が自分に集まっているのを感じていた」とあります。

出典:『保存版 舞鶴・宮津・丹後の100年』郷土出版社、2004年, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tango_Nakahama_Elementary_School_1906.jpg

朝礼前の校庭では上級生から「その変なものを脱いで、頭からかぶってみろ」と絡まれますが、「腕力ではひとたまりもなかったので、何をされても手出しをしないでいるより仕方がなかった」とあります。

一方で、同じく袴を穿いてきたことによりいやがらせを受けた同級生の光一は、上級性に大きな石を投げつけるなど必死に立ち向かいました。

下に引用したのは明治末期の尋常小学校の校庭の写真です。こちらの写真のなかに上級生を追いやった光一の姿とその姿に「生まれて初めて、自分の卑屈さをその少年によって思い知らされた」洪作の姿を置いてみましょう。

出典:Pinecloudtemple, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nakata-shool.png

成績が二番に!

朝礼が終わると一人ずつ通知簿を渡され「一学期の成績は一番が浅井光一、二番が洪作である」と発表しました。「一年の時は三学期を通して一番であった。それがこんど初めて、全く自分が意にも介していなかった山の部落の少年に追い越されたのだった」とあります。

下には大正初期の授業風景の写真を引用させていただきました。こちらの写真のなかの子供に「浅井光一に自分は学校の成績でも、暴力に立ち向かう態度でも敵わない」と挫折感を味わっている洪作の姿を重ねてみましょう。

出典:徳島県 編『自治経営写真帖』,徳島県,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967103 (参照 2023-12-19)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/967103/1/16

門野原の伯父の家への訪問

一学期が終了すると父の兄にあたる小学校校長の石守森之進の家に泊まりにいくことになりました。おぬい婆さんと2人だけの生活をしていた洪作にとって一人で泊まりに行くのは初めての経験です。

迎えにきた森之進は黙々と門野原の自宅に向かって歩きますが、嵯峨沢橋を渡る際に「お前のお父さんは昔この橋の下で溺れかかった・・・・・・泳ぎもできんのに飛び込んだ。無鉄砲な奴だった」と一言だけ発します。

下に引用したのはその嵯峨沢橋付近のストリートビューです。狩野川の流れを見下ろしながら、いつも気難しい顔をしている伯父の言葉に温かいものを感じたのではないでしょうか。

森之進の家に到着はしたものの、そこで息子の唐平などに冷遇されたと感じた洪作は、宿泊せずに一目散に自宅に逃げ帰ります。森之進が住む門野原から湯ヶ島まで距離は2Km程度、「ばあちゃ」と叫びながら必死に走りました。

途中で追ってきた伯父の「洪作」と呼ぶ声が聞こえますが、「洪作は構わず駐車場まで駆け、そこから家の方へ通じている旧道の坂を一気に登った」とあります。下のストリートビューの右側が馬車の駐車場跡、左が洪作の家に通じる旧下田街道です。ここでは息をはずませながらもほっと一息ついた洪作の顔を想像してみましょう。

豊橋の父母の家への訪問

当時の交通手段は?

なんとか逃げ帰った洪作ですが、今度は父のいる豊橋を訪問するという冒険が待っています。おぬい婆さんも一緒に招待され夏休みの2人旅が始まりました。湯ヶ島から大仁(おおひと)までは乗合馬車を利用し、軽便鉄道を利用して沼津まで出ます。そこから汽車に乗って豊橋まで向かう長い道のりです。

「天城(あまぎ)乗合馬車」は定員が6名の小型のトテ馬車でした。下には同時期に北海道で運行されていた乗合馬車の写真を引用させていただきます。ここでは、「馬車の天井からぶら下がっている綱に両手でしがみついていた」というおぬい婆さんの姿を想像しておきましょう。

出典:『開道五十年記念北海道拓殖写真帖』,開道五十年記念北海道拓殖写真帖発行所,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966636 (参照 2023-12-19、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/966636/1/273

大仁駅に到着

途中休憩をはさんで約四時間馬車に揺られたあと、やっと大仁駅に到着します。下には昭和初期(戦前)の大仁駅の写真を引用させていただきました。

ここでは「駅の小さい待合室」のベンチに腰をおろしたおぬい婆さんが「六さんの馬車は酔うと聞いていたが、ほんとに酔ってしまった。馬車やのぶきっちょなのにも困りもんじゃ」と不平をいっているところをイメージしてみます。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ohito_Station_before_1945.JPG

軽便鉄道

大仁から沼津までは軽便鉄道を利用します。軽便鉄道とは通常より線路の幅が狭いなど名前の通り簡易な鉄道のことです。敷設が比較的簡単にできるため明治・大正期の郊外を中心に活躍していました。

下には大正時代の草津軽便鉄道の写真を引用し、以下のような風景を想像してます。
「いよいよ軽便が動き出した時、旅情とでもいった気持が洪作の胸に忍び込んできた。汽笛の音にも、駅のホームにも、駅員にも、木柵にも、木柵の間から顔を覗かせている大仁の子供たちにも、それからまた同じ軽便に乗り合わせている客たちにも、洪作は妙に物哀しいものを感じた」

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusatsu_Light_Railway_in_Taisho_era.JPG

沼津の駅や町

当時の交通事情では一日で豊橋まで行くのは難しかったため、沼津に一泊しました。下に引用させていただいたのは明治時代の沼津の街ですが、洪作のころも同様に栄えていたと思われます。

こちらの風景のなかに洪作の姿を置き、「子供が通る度に、洪作は顔を俯けた。・・・・・顔立ちも、着ている着物も、歩き方も、何もかも相手に及ばないものを感じた」というシーンを想像してみましょう。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Numazu_in_Meiji_era.jpg

蒸気機関車(SL)

蒸気機関車は当時、現在の新幹線のような最先端の乗り物でした。洪作も「やがて、きのう大仁から乗った軽便とは較べものにならない大きな怪物のような乗り物が、地響きをたててホームへ滑り込んできた」といっています。

下には大正時代に生産を開始した8620形蒸気機関車の写真を引用させていただきました。「煙草を喫んだり」してくつろぐおぬい婆さんをしり目に、洪作は窓の景色に夢中です。蒸気の煤煙をおぬい婆さんに拭いてもらいながらも「窓の方を向いたまま、体を動かさなかった。自分の前を次々に未知の風景が飛んでいくので、見倦きるということは少しもなかった」とあります。

出典:MIYAMATSU Kinjiro / 宮松金次郎, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Boat_train_hauled_by_type_8620.jpg

汽車沿線の風景(弁当売り)

「列車が静岡駅へはいると、いろいろなものを箱に詰めた売子がホームを往き来した。おぬい婆さんはここで弁当とお茶を買った」とあります。駅ナカの売店などは少なかった時代で、下に引用させていただいた写真のように駅弁の立ち売りは大忙しでした。

このように「べんと・べんとー」とホームを歩く懐かしい売り子さんの声は今ではほとんど聞くことができません。

出典:C.H. Graves, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:3b42202.jpg

汽車沿線の風景(名物グルメ)

洪作はおぬい婆さんから手帳を渡され、駅名や大きな川の名前を書くように命じられました。静岡駅では「手帳に『シズオカ』と書き、その下に『アベカワモチ』と書かされた」とのこと。「アベ川餅がここの名物だということ」ですが、おぬい婆さんはここでは買わず「帰りのおたのしみじゃ」といいます。

静岡を出発するとすぐに安倍川の鉄橋を渡りました。明治末期の安倍川の鉄橋付近の写真(下図)には富士山が綺麗に映っています。「安倍川じゃ、安倍川じゃ」と叫び「な、大きかろうに」とおぬい婆さんはいいますが、当日は水量が少なかったのでしょうか、「洪作には狩野川より小さく見えた」とさほど感動を覚えませんでした。

そうこうしているうちにとうとう豊橋に到着。豊橋でのストーリーは次回(「しろばんばの風景」その3・参照)にて追っていきます。

出典:田山宗尭 編『日本写真帖』,ともゑ商会,明45.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/762376 (参照 2023-12-19、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/762376/1/179

旅行の情報

湯ヶ島尋常高等小学校跡地・湯ヶ島小学校跡地

洪作が通った小学校(湯ヶ島尋常高等小学校)の跡地には「天城会館」などが建ち、出口付近には「湯ヶ島尋常高等小学校跡地」の石碑が立っています。また、小学校は昭和初期に現在の「伊豆市・市民活動センター」の場所に移転し、同22年に「湯ヶ島小学校」と改名しますが、2013年に廃校となりました。

市民活動センターの館内には井上靖資料館も併設され、「しろばんば」の関連資料なども多数展示されています。また、入口付近には下に引用させていただいたような洪作とおぬい婆さんの像がお出迎えしてくれるので、一緒に記念撮影をしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ヶ島1650-3
【アクセス】修善寺駅から東海バスで30分。湯ヶ島温泉口から徒歩約5分
【参考URL】伊豆市観光情報サイト

嵯峨沢館

嵯峨沢館は伯父の家の近くにある温泉旅館で、しろばんばの舞台巡りの拠点としても利用しやすくなっています。洪作が森之進から、父が溺れかけた話を聞いた嵯峨沢橋のほとりにあり、下に引用させていただいたような野趣あふれる露天風呂が人気です。

全ての部屋が狩野川に面しているため、川のせせらぎを聴きながらリラックスした時間を過ごせるでしょう。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市門野原400-1
【アクセス】修善寺駅から東海バスで25分、嵯峨沢温泉で下車
【参考URL】https://www.sagasawakan.com/

安倍川餅

つきたてのお餅にきな粉と砂糖をまぶした静岡の名物グルメです。歴史は古く、周辺の御用金山を視察にやってきた徳川家康に献上した際に「安倍川もち」と命名されたと伝えられています。

静岡駅近で入手したい場合は駅ビルのパルシェに支店をもつ「松柏堂本店」などのご利用がおすすめです。下に引用させていただいたような少量パックも販売されています。こちらは1867年の創業なので、おぬい婆さんが湯ヶ島に戻る時に購入したのはこちらの商品だったかもしれません。

パルシェにはほかにも「安倍川もちのやまだいち」などの人気店も出店しているので、両方とも購入して食べ比べてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】静岡県静岡市葵区黒金町49番地
【アクセス】静岡駅直結
【参考URL】https://www.parche.co.jp/tenants/62(松柏堂本店・静岡パルシェ店)

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