宮本輝「流転の海」の風景(その4)

昭和二十三年の冬

井草に裏切りをそそのかした海老原太一(流転の海の風景その3・参照)を懲らしめようと、熊吾は彼の事務所を訪ね、(存命の)井草の墓参りに誘いました。現地で不穏な空気を感じた海老原は熊吾に謝罪しますが恨み言も放って逃げ去り、熊吾は山中に一人取り残されることに!ほかにも伸仁が急病になり、熊吾が慌てて病院に運ぶ場面も追って行きましょう。

伸仁を病院に

昭和二十三年の一月二十七日、熊吾が新聞を読んでいると妻の房江が息子・伸仁の様子がおかしいと部屋に飛び込んできました。伸仁が顔を覗き込むと
「真っ青で唇の色もなく、息づかいも、幾分あえいでいるように見えた」
とのこと。

驚いた熊吾はかかりつけの「国鉄の六甲道駅前にある」筒井医院まで
「石屋川沿いの坂道を全力で駆け下っていった」
とあります。

出典:昔の六甲道街並み再現プロジェクト(昭和30・40年代)、六甲道駅ホームより東灘区の山火事を望む(1965.10.03)
http://www17.plala.or.jp/moomin3/gallery1.html

上には昭和40年の六甲道駅のホームの写真を引用させていただきました。ここではホームの裏側のどちらかの建物を筒井医院に見立て、
「こらっ、あけんか。息子が死にそうなんじゃ。あけてくれェ」
と熊吾が叫ぶ光景をイメージしてみましょう。

その声たるや
「駅に急ぐ数人の勤め人が、熊吾の、隣村の牛でさえびっくりして目を醒ますと故郷である伊予の一本松村の人々が噂し合うほどの大声に驚いて立ち停まった」
ほどでした。

筒井医師との会話

筒井医師の本棚には「資本論」があり、共産主義に興味を持っていることを知ります。
「共産主義者が過酷な弾圧を受けた戦前や戦後も(中略)秘密裡に蔵し持っていた」
との記述があるように、「資本論」などの共産主義的な著作は第二次大戦中、発禁書とされていました。

下には参考のため、文部から省発行された発禁図書一覧(1942年)の一部を抜粋しておきます。

出典:『文部省推薦並教学局選奨図書思想関係発禁図書一覧』発禁図書ノ部,文部省教学局,1942. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1797200 (参照 2024-05-15)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1797200/1/26

なお、映画で筒井医師を演じていたのは刑事ドラマ「太陽にほえろ」の山さんとしても活躍された露口茂さんです。
下には1980年ごろの同氏の写真を引用させていただきました。

出典:NHK公式サイト、NHKアーカイブス、人物、露口茂
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009070766_00000

筒井医師の診察により伸仁が重篤な病気でないことが分かり、ほっとした二人は世間話を始めます。以下にその内容を抜粋しておきましょう。

筒井「私は、戦争に負けて、本当に良かったと思てます。人間は自由でないといかん。自由というものが与えられただけでも、戦争に負けた価値がありましたよ」
熊吾「未来洋々たる何百人もの若者をいけにえにして得た自由とは、いったい何ですか」
筒井「人間にとっての真の自由とは、心の自由ということでしょう。思想の自由、宗教の自由こそが、人間における究極の自由やと私は学生時代から考えて来ました・・・・・・」
熊吾「・・・・・・筒井先生の言葉には、全面的に賛同しますが、あるものを得るためには、あるものを犠牲にしてもええっちゅう考え方までを、自由というもんの範疇に入れるのは、いささかはき違えとるんやありませんか。百万人の繁栄のためには、千人を殺してもええ。私はこれが共産主義の指導者たちの本音じゃと解析しとります。・・・・・・」

海老原太一との対決

会社を去った井草の件を明らかにしたいと考えた熊吾は海老原太一の会社を訪れました。以下に会社での会話を抜粋します。

熊吾「進駐軍の将校を紹介してもろたお礼を、まだせんずくじゃったけん、どんな礼をさせてもろたらええか、相談に来たんじゃ」
海老原「そんな礼なんて・・・・・・。私がなんとか一人前になれたのは大将のおかげでっさかい、ご恩返しやと思てますのに」

会話をしているうちに海老原がつい口をすべらせます。
海老原「このごろ、井草はんの姿を見かけまへんけど、どないしはりましたんや」
熊吾「あいつは、きょ年の、キャスリン台風のあとに死んだ」
海老原「・・・・・・死んだ」
熊吾「一緒に井草の墓参りに行かんか」
海老原「井草はんのお墓、どこにおまんねん」
熊吾「有馬温泉へ行く旧街道の、滅多に人の通らん藪の中にある・・・・・・」
海老原「いつ行きはるつもりでっか」
熊吾「きょうや。いまから行くつもりや。車で一時間もかからんじゃろ。早よう用意せえ」

出典:三省堂旅行案内部 編『近畿關西旅行案内 : 修學旅行の栞』,三省堂,三省堂大阪支店,1933.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1881410 (参照 2024-05-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1881410/1/22

昭和初期には表六甲ドライブウエイ・裏六甲ドライブウエイが開通し、上の旅行案内のように神戸から有馬温泉への主要ルートとなっていました。

なお、上に掲載されている「六甲開祖の碑」は六甲山の観光開発と景観保護に尽力したアーサー・ヘスケス・グルーム氏を顕彰する記念碑でしたが、第二次大戦中にグルーム氏が敵国人ということで取り壊されてしまいます。

表・裏六甲ドライブウェイ(新道?)に対し、熊吾のいう「有馬温泉へ行く旧街道」とは現在の国道428号線から県道神戸三田線(15号)に到るルート(有馬街道の一つ)であったかもしれません。上のグーグルマップで高速道路、有料道路を使用しないオプション設定にするとそのルートになります。

また、以下には昭和初期の有馬街道(国道428号線)の写真を引用させていただきました。

出典:今昔物語、有馬街道
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=2436

熊吾と海老原を乗せた車が神戸の市街地から山道に入り、雪の積もった箇所にくると
「曲がりくねった凸凹の山道をかなりのぼったあたりで、運転手が車のスピードを落とし、『ここから先はちょっと走れそうにありませんよ』と言って前方を指差した」
とのこと。

熊吾は「ここでええんじゃ」といって車を降り、海老原を連れて灌木の中に入っていきます。そして
「野焼きのあとが残る、あたかも土俵の形をした平かな円形の原っぱの真ん中で熊吾は足を停めた」
とあります。

井草の裏切りの件で熊吾に対して後ろめたい気持ちがある海老原は原っぱに正座し、以下のように切り出します。
海老原「助けて下さい。お願いですけん、殺さんでやんなはれ。大将、松坂のお父さん、頼みますけん、許しちゃってやんなはらんか」
熊吾「わしに、何か悪いことでもしたのか」
海老原「井草はんを、大将から離れさせました・・・・・・大将の金をネコババさせました」
熊吾「井草を欲しゅうて、やったんじゃあるまい。わしが憎うて、そうしたんじゃな」

出典:神戸観光壁紙写真集、菊水山/菊水山山頂から見る神戸の風景写真
http://kobe.travel.coocan.jp/rokko/kikusuiyama.htm

「横手の裸木のあいだから、神戸の海が見えていた。アメリカのタンカーが一隻、港に入って来るさまが、灰色の風景の中で、妙にはなやいで映った。黒い船体に二本の赤い線が引かれていて、それは、冷え枯れた光景の中に、未知の新しい時代の到来が幻想でも虚妄でもなく、真実の出来事であることを、熊吾にはっきりしらせて来たのだった」

上に引用させていただいたのは有馬街道周辺の登山スポットの一つ・菊水山山頂からの写真です。「流転の海」には場所についての詳細な記述はありませんが、熊吾が見たのもこちらのような景色だったかもしれません。

熊吾「なんで、このわしが憎いんじゃ」
海老原「昔、人前で恥をかかされました。ビルの落成記念の祝賀会の席で・・・・・・あの日は、私の晴れの日や。何百人もの客を前にして、ソースのついた肉を投げつけ、私を土下座させはった。・・・・・・あのときの恨みは、一生忘れしまへん」
熊吾「それで、仇をうったっちゅうわけか」

恐怖を感じた太一は隙をみて逃げ出し、熊吾は人気のない山の中に置き去りにされてしまいました。

有馬温泉に到着

途方に暮れて車で来た道を徒歩で下っていると、下から「荷車を引いた若い男がのぼってきた」とのこと。

熊吾「有馬温泉に行くのと、神戸に行くのと、どっちが近いですかのお?」
青年「ここからでしたら、どっちもおんなじようなもんです・・・・・・有馬温泉に抜ける近道がこの先にあります。在の者しか知らない道ですけど」
熊吾「有馬温泉は、いまでも旅館がありますか」
青年「きょ年の春から二軒の旅館が商売を始めました」
熊吾は青年にお金を払って有馬温泉まで荷車に乗せてもらうことになります。

昭和16年の旅館名簿によると、有馬温泉には約25軒の旅館が登録されています。一方、「流転の海」の設定(?)では昭和23年1月時点では2軒しか再開していなかったとのこと。中之坊旅館は公式サイトに昭和21年に営業再開とありますが、もう一軒はどちらの旅館だったでしょうか?

出典:旅館研究会 調査・編纂『全国旅館名簿』,旅館研究会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104 (参照 2024-05-16、一部抜粋して加工)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104/1/323

もう少しで有馬温泉という場所まできたときに
「物陰から三人の男が走り寄って来て、荷車を取り囲んだ」
とのこと。
下には昭和初期の有馬温泉の俯瞰写真を引用しました。

出典:忠誠堂編輯部 編『日本名勝風俗大写真帖』,忠誠堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112143 (参照 2024-05-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112143/1/85

三人は荷車で運んでくれた青年(北沢茂吉)を追っている警官でした。
警官「連合軍から戦争犯罪人として逮捕状が出てるのを知ってるな?」
北沢「あんたたちはアメリカ人ですが。どう見ても日本人ですね。日本人が日本のために戦った日本人を、戦争犯罪人として捕える。結構なお仕事ですね」

警官たちは北沢の顔を殴りつけ、手錠をつけて連行していきました。

新橋の芸者と再会

有馬の温泉宿で羽根を伸ばそうとした熊吾は芸者を呼びます。入ってきた27歳の女性は「春菊」という名前で、戦前、東京・新橋の料亭で会ったことがあるといいます。
「自動車会社の社長さんの接待でお越しになり、上座に座ってらっしゃいましたわ・・・・・・松坂さんの横には千津清姐さんが坐っていましたね」
とのこと。

下には明治時代から営業を続け、「日本三大料亭」ともされる新橋料亭・新喜楽の一室の写真を引用させていただきました。ここでは、戦前の羽振りの良かった熊吾の姿をこちらに置いてみましょう。

自分を知っていることに気味悪さを感じつつも春菊の魅力にひかれた熊吾は、以後2年の間、愛人として養う約束をします。

旅行などの情報

六甲山ビジターセンター・ガイドハウス(記念碑台)

上でも紹介したようにアーサー・ヘスケス・グルーム氏を顕彰する「六甲開祖の碑」は第二次大戦中に取り壊されてしまいましたが、昭和30年に二代目の記念碑が再建され、グルーム像とともにこちらのスポットの見どころとなっています。

六甲山は初級から上級までの多彩なハイキングコースがあり、ビジターセンターは散策の休憩場所としてもおすすめです。また、下に引用させていただいたような展望デッキからは熊吾が眺めたような神戸港の絶景を堪能できるでしょう。

出典:六甲山ビジターセンター公式サイト、展望デッキ
https://rokkosan.center/facility#groomzou

基本情報

【住所】神戸市灘区六甲山町北六甲4512-270
【アクセス】六甲山上駅から徒歩で約20分(バスも運行)
【参考URL】https://rokkosan.center/facility#groomzou

有馬温泉・中の坊瑞苑

熊吾が有馬温泉のどちらに宿泊したかは明記されていませんが、ここでは昭和21年には既に再開していた中之坊旅館(現・中の坊瑞苑)を紹介しましょう。

明治元年に創業した歴史のある旅館で、金泉(大浴場)と銀泉(無料貸切露天風呂)の両方を引いているのも魅力です。食事も瀬戸内・日本海などの海の幸や、神戸牛といった贅沢な食材を使った会席など豊富なメニューから選ぶことができます。

また街歩きをするのも有馬温泉の楽しみ方の一つです。外湯や湯けむり広場などを巡りながら、お土産探しをしてみてはいかがでしょうか。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/22642597&title=%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B8%A9%E6%B3%89%E8%A1%97%E3%81%AE%E8%A1%97%E4%B8%A6%E3%81%BF%E3%80%90%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%80%91

基本情報

【住所】神戸市北区有馬町808
【アクセス】有馬温泉駅から徒歩で約5分
【参考URL】https://www.zuien.jp/

宮本輝「流転の海」の風景(その4)” に対して3件のコメントがあります。

コメントは受け付けていません。