村上春樹「1973年のピンボール」の風景(その4)
再び「僕」の物語
「僕」は双子との奇妙ですが平穏な毎日を送っていました(1973年のピンボールの風景その2・参照)。そんなある日曜日の朝、「僕」の部屋のドアをノックする音が響きます。また、風邪で休んだため翻訳すべき書類がたまっていましたが、その内容は興味深いものでした。さらに今回は、「僕」の好みの本や嫌い(聴きたくない)曲などについても触れていきます。
配電盤の交換
日曜日の朝、僕の部屋をノックする音で目を覚まします。
「新聞の勧誘員以外に僕の部屋をノックする人間なんて先ず誰もいない。だからドアを開けたこともなければ返事さえしたこともない。しかしその日曜日の朝の訪問者は三十五回もノックを続けた」とのことです。
「朝の四時まで双子とバックギャモンをしていた」せいでひどく眠かったが、仕方なくドアを開けます。下にはバックギャモンのボードの写真を引用しました。
出典:Kyoku, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Backgammon_Set.jpg
訪問者は「グレーの作業服を着た四十ばかりの男」で「仔犬でも抱えるようにヘルメットを手にして廊下につっ立っていた」とのこと。容貌については「どれだけ髭を剃っても剃りたりないくらいまっ黒な顔をした男だった。目の下にまで髭がはえている」ともあります。
訪問者「電話局のものです。・・・・・・配電盤を取り替えるんです」
僕「午後にしてくれませんか?」
訪問者「今じゃなきゃ困るんですよ」
僕「どうして?」
訪問者「一日分の仕事が決まってるんですよ。この地区が住んだらすぐ別の方に移ることになってるんですよ、ほらね」
(と、手帳をみせました)
僕「今ので不自由ないんだ」
訪問者「今のは旧式なんです」
僕「旧式で構わないよ」
訪問者「配電盤はみんな本社のでかいコンピューターに接続されてるんですよ。ところがお宅だけみんなと違った信号を出すとするとね、これはとても困るんだ。わかりますか?」
僕「わかるよ。ハードウェアとソフトウェアの統一の問題だよね」
訪問者「わかったら入れてくれませんかね?」
出典:Mjyasini, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_copper_telephone_line_post.JPG
上に引用したのはアナログ線(銅線)が配線された電話用配電盤の写真です。
ここでは「十分ばかりで工事は終ったが、その間双子は額を寄せて何事かを囁きあいながらクスクス笑っていた。おかげで男は何度も配線をやりそこなった。」
という風景を想像してみましょう。
デニッシュ・ペストリー
作業が終わった訪問者(工事人)に「僕」は「残っていたデニッシュ・ペストリーを勧めてみた」ところ「彼はひどく喜んでそれを受け取り、コーヒーと一緒に食べた」とあります。下にはデニッシュ・ペストリーの老舗アンデルセンの人気商品・ダークチェリーの写真を引用させていただきました。
以下には双子と工事人の会話を抜粋します。
工事人「すみませんね。朝から何も食べていないんだ」
双子208「奥さんはいなんの?」
工事人「いや、いますよ。でもね、日曜日の朝は起きちゃくれないんです」
双子209「気の毒ね」
工事人「あたしだって好きで日曜に仕事してるわけじゃない」
ここでは、「日曜日の朝は(妻が)起きちゃくれないんです」とぼやきつつも、双子のいれてくれたコーヒーをお供に、デニッシュを美味しそうにほおばる工事人の姿をイメージしてみます。
学生時代の下宿の思い出
ここからは「僕」の学生時代の回想シーンです。下宿に住んでいた少女の話が挿入されます。
「僕は一階の管理人室の隣の部屋に住み、その髪の長い少女は二階のわきに住んでいた。電話のかかってくる回数では彼女はアパート内のチャンピオンだったので、僕はつるつるとすべる十五段の階段を何千回となく往復する羽目になった。」とあります。
「僕が学生の頃に住んでいたアパートでは誰も電話なんて持ってはいなかった」とあるように当時の下宿には下に引用したようなピンク電話があるのが一般的でした。
ある日男からの電話を取り次ぐと、その少女は「いつものボソボソとした話し声」ではあるものの、十五秒ほどと「彼女にしては実に短い電話」を済ませます。
出典:Kuha455405, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pink_Public_Telephone.jpg
そして、しばらくすると「僕」の部屋のドアがノックされました。
少女「入っていい?寒くって死にそうなのよ」「・・・・・・何か暖かいものを飲めるかしら」
「『僕』が首を振って、何もない」と言うと、部屋に戻った彼女は「ダンボールの箱をひとつ両手に抱えて戻って来た。箱の中にはティーバッグと緑茶が半年分ばかり、ビスケットが二袋、グラニュー糖、ポットと食器がひと通り、それにスヌーピーの漫画のついたタンブラーが二個入っていた。」とのこと。
彼女「いったいどうやって暮らしてるの?まるでロビンソン・クルーソーじゃない?」
僕「それほど楽しくはないよ」
彼女「でしょうね・・・・・・これ全部あなたにあげる」
僕「何故くれる?」
彼女「何度も電話を取り次いでもらったもの。御礼よ・・・・・・明日引越すのよ。だからもう何も要らないの」
彼女は大学をやめて故郷に帰って行きました。
上にはスヌーピーミュージアムの公式SNSからスヌーピーとウッドストックが会話をしているイラストを引用させていただきました。
こちらのイラストから少女からもらったグラス(タンブラー)のデザインをイメージしてみましょう。
「そのグラスにはスヌーピーとウッドストックが犬小屋の上で楽しそうに遊んでいる漫画が描かれ、その上にはこんな吹き出し文字があった。『幸せとは暖かい仲間』」。
「暖かい」とありますが、少女を見送った帰りに買ったビールをそのグラスで飲むと「体の芯までが凍りついてしまいそうだった」とあります。
ユニークな翻訳も!
風邪で三日ほど休んだ「僕」の前には翻訳待ちの書類が「蟻塚のように積み上げられて」います。下には蟻塚の写真を引用しました。
「至急」の蟻塚は手前の一つだけだったため、「僕」は少し安心し、内容を確認しながら「片付ける順序に本を積み変えてみた」とのことです。
出典:Felix Dance, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:20160903133935_-_Forest_of_termite_mound,_between_Burketown_and_Normanton_(29383903862).jpg
なお、「その内容たるや実に心躍るとりあわせだった」ともあります。
例えば「チャールズ・ランキン著・『科学質問箱』動物編」という本に対しては「熊が魚を取る方法」の翻訳が求められています。
「注文主の名前が書かれていないのがまったく残念でならなかった。誰がどのような理由で、このような文章の翻訳を(それも至急に)望んでいるのか見当もつかなかったからだ。」
上には川で魚を探している(ようにみえる)熊の写真を引用させていただきました。「僕」は注文主について「おそらくは熊が川の前にたたずんで僕の翻訳を心待ちにしているのかもしれない。」と想像を膨らませています。
体調は万全ではありませんでしたが、
「カセット・テープで古いスタン・ゲッツを聴きながら昼まで働いた。・・・・・・『ジャンピング・ウィズ・シンフォニー・シッド』のゲッツのソロをテープにあわせて全部口笛で吹いてしまうと気分はずっと良くなった。」とのこと。
下にはそのスタン・ゲッツの曲を引用させていただきました。
ラバー・ソウル
やっと一日の仕事を終えた「僕」は最寄りの駅まで電車で移動し、駅前のスーパーマーケットで夕食の買い物をしました。そこからバスに乗って家に帰ると、シャワーを浴びて体を拭き、ベッドに寝転びます。
その間に「双子たちはそのあいだ野菜を切り肉を炒め米を炊いた。」とも。
双子「ビール飲む?」
僕「ああ」
双子208「音楽は?」
僕「あればいいな」
「彼女はレコード棚からヘンデルの『レコード・ソナタ』をひっぱり出してプレイヤーに載せ、針を下ろした。何年も昔のバレンタイン・デーに僕のガール・フレンドがプレゼントしてくれたレコードだ。」とのこと。
「レコーダーとヴィオラとチェンバロのあいだに通奏低音のように肉を炒める音が入っていた」とのこと。双子がつくっていた夕ご飯は下の写真のような肉野菜炒めだったかもしれません。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/22580546&title=%E8%82%89%E9%87%8E%E8%8F%9C%E7%82%92%E3%82%81%E5%AE%9A%E9%A3%9F%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%95%EF%BC%89%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%8D%98%E8%AA%9E%2F%E5%AE%9A%E9%A3%9F+%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%90%8D%2FYUTO%40PHOTOGRAPHER
食事を終えると、双子のいれてくれた「生命を与えられたように香ばしいコーヒー」を飲みます。次に双子がかけたレコードはビートルズの「ラバー・ソウル」というアルバムでした。
僕「こんなレコード買った覚えないぜ」
双子「私たちが買ったの・・・・・・もらったお金を少しずつ貯めたのよ」
「僕は首を振った。」
双子「ビートルズは嫌い?・・・・・・残念ね。喜んでくれると思ったの」
双子「ごめんなさい」
「一人が立ち上がってレコードを停め、大事そうに埃を落としてからジャケットにしまいこんだ」とのことです。
「ラバー・ソウル」は「ノルウェーの森」などの曲が収録されたアルバムです。「僕」が突然機嫌が悪くなったことに対しては、冒頭に出てくる亡くなった恋人(直子)のことを思い出してしまうからとの見方もできます。
なお、村上氏のベストセラー「ノルウェーの森」にも同名の女性(直子)が登場し、その直子が好きだった曲が「ノルウェーの森」です。そのため、関連付けてさまざまな解釈がされています。
上にはその「ノルウェーの森」の楽曲を引用させていただきました。以下に抜粋したシーンをイメージしてみましょう。
僕「少し疲れて苛々してただけさ。もう一度聴こう」
双子「遠慮なんかしなくていいのよ。ここはあなたのお家なんだもの」
僕「もう一度聴こう」
「結局僕たち『ラバー・ソウル』の両面を聴きながらコーヒーを飲んだ。僕は幾らか安らかな気持ちになることができた。双子も嬉しそうだった。」
純粋理性批判
コーヒーを飲み終えたあと、体温を計ると三十七度五分もあります。
双子「シャワーなんて入るからよ」
もうひとりの双子「寝た方がいいわ」
この小説の中で「僕」がしばしば読んでいるのが「純粋理性批判」というドイツの哲学者・カント(1724年~1804年)の著作です。下にはカントの肖像画を引用しておきます。
出典:Unidentified location, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kant_gemaelde_1.jpg
「僕は服を脱ぎ、『純粋理性批判』と煙草を一箱持ってベッドにもぐりこんだ。・・・・・・カントは相変わらず立派だったが、煙草は湿った新聞紙を丸めてガスバーナーで火をつけたような味がした。」
ここでは熱によりカントの言葉があまり頭に入らず、あきらめて「本を閉じ、双子の声をぼんやりと聞きながら、暗闇にひきずり込まれるように目を閉じた」というシーンを想像してみましょう。
旅行の情報
アンデルセン
配電盤の工事人にごちそうしたデニッシュ・ペストリーで登場してもらったお店です。「アンデルセン」は創業70周年以上の老舗のパン屋さんで全国に数多くの視点を展開しています。デンマークのパンの味に感動した創業者が日本初のデニッシュ・ペストリーを開発・販売をしたとのこと、本場の味が楽しめます。
デニッシュとしては「ダークチェリー」のほかにも「オレンジとクリームチーズ」や「シナモン」なども人気。ほかにもどんな料理にも合わせやすい「ハイジの白パン」や「パストラミポーク&チーズのカスクートサンド(下に引用させていただきました)」など食事用パンの種類も豊富にあります。
(以下には「僕」の勤務先に近い渋谷の店舗情報を掲載しました)
基本情報
【住所】東京都渋谷区道玄坂1-12-1(アンデルセン渋谷東急フードショー店)
【アクセス】渋谷駅から徒歩約1分
【参考URL】https://www.andersen.co.jp/