宮本輝「野の春」の風景(その3)
伸仁が二十歳に
昭和42年、「この子が二十歳になるまでは絶対に死なん」と誓った伸仁が二十歳を迎えました。別居中の熊吾も誕生日を一緒に過ごし、感極まってあまり涙を流す場面も!また、熊吾が地元に戻っていた頃、ビルマから復員した中村音吉(地の星の風景その2・参照)が大阪にやってきます。彼のマイペースな行動は房江たちをほっこりとした気分にさせてくれました。
昭和42年正月の風景
「正月といってもホテルは営業をしている。多幸クラブは主に商用で大阪にやってくる人たちが宿泊するのだが、正月はそれらの客はいない代わりに、地方から大阪天満宮とか西宮のえびす神社に参詣する客でほぼ満室だ。」
そのため房江は元日も出勤とのこと。下には、昭和40年頃の十日戎(1月9日~11日に開催される恵比寿様に商売繁盛を祈願するお祭り)で賑わう西宮神社の写真を引用させていただきました。こちらの中には「多幸クラブ」に宿泊した人もいたかもしれません。
出典:にしのみやデジタルアーカイブ、西宮神社 十日戎(1965年01月09日~1965年01月11日)
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=1715
また、伸仁も以下のような理由で朝早く出かけていきました。
「大学のテニス部の練習も元旦は休みだが、かつての関西の大学における名選手たちによる大会が甲子園テニス倶楽部で行われる。現役の学生たちは、審判をしたりボールボーイを務めなければならない。・・・・・・朝の八時に阪神電車の甲子園駅に集合だ」
下には昭和40年代の甲子園駅の写真を引用させていただました。こちらに雨の中、大きなボストンバッグを持って、駅前に立つ伸仁の姿を置いてみましょう。
出典:にしのみやデジタルアーカイブ、阪神電鉄甲子園駅前(1968年02月)
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=12435
房江も伸仁も外出のため、熊吾がモータープールで留守番をしていると、千代麿と木俣敬二が年始の挨拶にやってきました。木俣は醤油と唐辛子を塗った赤色のクラッカーを熊吾に試食させます。
木俣「これはコーティング・チョコレートやおまへんねん。新製品です。これが大ヒット。売れに売れまくって、製造が追いつきまへん。・・・・・・これに火がつくと、ちょっと右肩下がりがつづいてたコーティング・チョコレート塗りのまでが右肩上がりへと急カーブを切りました」
熊吾「なるほど、これはうまいな」
また、熊吾は「経営コンサルタント」のようなアドバイスもします。
熊吾「こういう物は特許は取れんのか。クラッカーメーカーが横取りを企む前に手を打っとかにゃあいけんぞ。・・・・・・いまの得意先とは社長自らが人間的なつながりを持っとくことじゃ。・・・・・・菓子屋や飲み屋を一軒一軒訪ねて、そこの主人に挨拶をしとけよ。あの最高のチョコレートを三個ずつ差し上げて廻れ。キマタ製菓では、こんな凄いチョコレートも作るんじゃと知ったら、クラッカーメーカーだけやない、大手の菓子メーカーも一目置きよる。それに、あの世界最高のチョコレートの宣伝にもなる。・・・・・・」
熊吾にも贈り物を
三月六日が近づくと、房江は以下のような思いに浸ります。
「ことしの誕生日に伸仁は二十歳になるのだ。あの神戸市灘区の石屋川畔の家で、生まれたばかりの伸仁の全身を天眼鏡でつぶさに調べながら、俺はこの子が二十歳になるまで生きていられるだろうかとつぶやいた夫の声が甦ってくる」
そして
「俺はこの子が二十歳になるまでは絶対に死なん。」
という約束を守った熊吾に対し、何か贈り物をしたいと考えました。
「上海で買ったという中折れ帽はもう古くなって、夫の頭の上で歪んでひしゃげている。新しい中折れ帽を買ってあげようか。だがあればイタリア製だ。ボルサリーノという銘柄で、日本では手に入りにくいらしい。それにとても高価なのだ。」
上に引用させていただいた映画「ボルサリーノ」の予告編でアランドロンさんなどが被っているハットがボルサリーノ製です。映画タイトル(ボルサリーノ)は若者たちがいつかは被ってみたい成功者の証を象徴しています。
ちなみにボルサリーノの中折れ帽は房江には「あまりにも高くて、品のいいイギリス製の鳥打帽にした」とあります。
明洋軒での誕生会
「二十歳の誕生日は、伸仁の希望で、梅田の明洋軒での食事となった。」
房江「これはお父ちゃんへのお祝いやねん」
熊吾「わしに?なんの祝いじゃ」
房江「ノブが二十歳になるまで生きてくれはったお祝い。お父ちゃん、誓いを果たしはったねえ。おめでとう」
房江は鳥打帽の入った箱を渡しました。
出典:Daan Noske / Anefo, CC BY-SA 3.0 NL https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/nl/deed.en, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Clark_Gable_1953.jpg
上には熊吾が若いころに似ていると言われたクラーク・ゲーブルさんの写真を引用しました。こちらの写真は笑顔ですが、熊吾は感極まり涙を止めることができませんでした。
熊吾「わしは己への誓いを果たしたことは一度もないが、これだけは果たし終えたのお。伸仁が二十歳まで生きてくれたからこそ果たせた誓いじゃ」
「映画や芝居を観て泣く場面は観て来たが、それ以外のときに大粒の涙を流している夫を見るのは初めてで、房江も涙を止められなくなった」
春の野の風景
熊吾たちは食事をしながら伸仁の幼いころの話をします。
熊吾「野壺に落ちたのお。覚えちょるか?手がにゅっと突き出んかったら、お前は糞尿の底に沈んで死んじょったぞ」
伸仁「落ちたときのことは覚えてないけど、そのあと井戸の水で体を洗われて、日向に立たされてたときのことは断片的に覚えてるで」
熊吾「和田茂十という網元がおってのお、あの人が四つのお前に言うた言葉がおもしろかった。『坊は、野壺にはまったかなァし。まあ、男は一遍は野壺にはまっといたほうがええ。あそこは、いろんな経験が溜まっちょるところやけん』・・・・・・」(地の星の風景その2・参照)
当時を思い出した房江に、熊吾のいう「巨大な土俵」のような田園が浮かんできます。
「田に水を引く前の、春の野だった。・・・・・・春の訪れは、まだ水を引く前の田圃に夥しいれんげの花を咲かせる」
上には愛南町のレンゲソウの写真を再度、引用させていただきました(地の星の風景その1・参照)。
音吉が大阪へ
中村音吉がひとり娘の新居を見届けるために大阪にやってくることになり、都合がよければ熊吾たちにも会いたいという手紙が届きました。
「三月十日の早朝に城辺を発ち、宇和島から今治経由で船に乗り換え、尾道から山陽本線で大阪へという切符をすでに購入した。大阪駅に着くのは翌日の朝だ」
上に引用させていただいたのは今治と尾道を結んでいた連絡船の写真です。水中翼を備えた観光船(右下)も運行されていたとのことですが、音吉はのんびりと連絡船(右上)に乗っていたかもしれません。
プロレスラーも宿泊
房江は音吉のために自分の勤める多幸クラブの宿泊予約をしますが、彼はチェックインの時間になってもなかなかやってきません。後で聞いたところ「通天閣にのぼり、新世界という繁華街をぶらぶらしたあと、道頓堀界隈を見物して梅田へと来たが、地下街で迷ってしまった」とのこと。
音吉がホテルに到着したと連絡を受けた房江が厨房からフロントに向かうと「アメリカのプロレスラー」がチェックイン中でした。
房江「本物のプロレスラー?」
ボーイ「本物です。あのいちばんでかい人がいちばん有名です。テレビでよう見るでしょう?リングではマスクを付けてますから素顔はわからへんのです」
房江が見たのがどなただったかは不明ですが、上には当時悪役レスラーとして有名だったザ・デストロイヤー氏の写真を引用させていただきました。
音吉「大阪にきてよかったけん。本物のプロレスラーが見れるんじゃけんのお」
房江「いつもプロレスラーがいてるわけやないよ」
マイペースな音吉
音吉はその日の夜の八時から熊吾と外食をすることになっていました。房江とタネは音吉の多幸クラブへのチェックインを手伝い、地下鉄の梅田駅まで送り届けます。
梅田駅までの途中の会話を抜粋してみましょう。
房江「これ、五日前に写したノブの写真。あとでゆっくり見て」
ところが音吉は、繁華街を歩きながら封筒の中から写真を取り出しました。そして、周りの歩行者を妨げながらゆっくりと写真を見ていたと思われます。
音吉「おお、ほんまに大きいになりましたなァし・・・・・・房江おばさんは明治の終わりに生まれた日本人の女としては背が高いけん、ノブちゃんは五尺六、七寸かのお。・・・・・・ノブちゃんは、どこから見てもお母ちゃんに似ちょる。熊のおじさんにはぜんぜん似ちょらん・・・・・・」
出典:今昔写語、昭和40年頃の梅田
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=8262
上には昭和40年頃の梅田駅前の写真を引用させていただきました。こちらのどこかに
「うしろから人に押されようとも、振り返って舌打ちをされようとも、音吉はまったく意に介さなかった」
という音吉を置いてみましょう。
タネ「音やんは、あんなに悠長なのんびりした人やったろか。あれでは大阪では生きていかれへんわ」
「タネにそう言われたら、音吉は憮然とするしかあるまい」
房江はどっちもどっちだと思っていました。
旅行などの情報
ボルサリーノ
ボルサリーノは1857年にイタリアで創業した老舗帽子ブランドです。昭和時代には沢田研二さんが「カサブランカダンディ」を歌う際に愛用されたことでも話題になりました。下に引用させていただいた店舗内の写真のように、中折れ帽だけでなく鳥打帽やキャップなどの商品ラインナップを扱っています。
国内では伊勢丹新宿メンズ館店や高島屋日本橋店、大丸心斎橋店などに実店舗があるので、試着しててみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】新宿区新宿3-14-1伊勢丹メンズ館1F(伊勢丹新宿メンズ館店)
【アクセス】JR新宿駅東口から徒歩約5分
【参考URL】https://japan.borsalino.com/pages/%E5%BA%97%E8%88%97%E6%83%85%E5%A0%B1
芸予汽船
昭和42年当時、愛媛から大阪に向かうには今治・尾道間を船で移動するのが一般的でした。2024年10月現在は直通の船便はありませんが、今治から因島の土生港(はぶこう)への便を芸予汽船が運行しており、瀬戸内の島々に立ち寄ることができます。
今治・尾道間にはサイクリストの聖地「しまなみ海道サイクリングロード」が整備されているので、船を活用してお好みのルートを走ってみてはいかがでしょうか。船からは上に引用させていただいたような夕日の絶景にも出会えるかもしれません。
基本情報
【住所】愛媛県今治市片原町1丁目100番地3(今治港)
【アクセス】今治駅から徒歩で約17分
【関連URL】https://geiyokisen.com/
プロレス・マスク・ミュージアム
タイガーマスクの専属マスク職人として有名な中村ユキヒロ氏が設立した、覆面レスラーのマスク博物館です。海外のマスクマンのコーナーもあり、上でも登場してもらったザ・デストロイヤー氏のマスクも展示されています。もちろん初代タイガーマスクやザ・グレート・サスケなどの歴代の日本人マスクも数多く、見応え充分です。
上に引用させていただいた公式サイトの店内写真のように、マスクだけでなく記念写真なども展示され、プロレスの世界に浸ることができます。ショップではマスクやDVD、書籍、Tシャツなどの販売もありグッズ探しも楽しめるでしょう。
基本情報
【住所】東京都千代田区三崎町2-9-5水道橋TJビル5F・502号
【アクセス】JR総武線水道橋駅西口1分
【関連URL】http://pwmw.jp/