内田百閒「第一阿房列車」の風景(その1)

はじめに

「第一阿房列車」は戦後の復興期に内田百閒(ひゃっけん)氏が行った鉄道旅をもとにした紀行文です。現代とは70年ほどの隔たりがありますがユーモアあふれるテンポの良い語り口のため、さくさくと読むことができます。同乗者の「ヒマラヤ山系」などとの会話を楽しみながら、当時の日本各地の様子を見ていきましょう。

ほかにも「第二阿房列車」の風景「第三阿房列車」の風景「贋作吾輩は猫である」の風景といった百閒先生のシリーズがありますので併せてお楽しみください。

特別阿房列車

特急はと

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」とあるように「阿房列車」とは観光や仕事などの目的なしで出かける列車旅を自虐的に呼んだものです。

最初に小説の主人公である内田百閒先生の姿を下の写真で見ておきましょう。左下に仏頂面をして立っているのが百閒先生、昭和27年に東京駅名誉駅長を務めたときの姿です。

出典:Japanese National Railways, Tōkyō Railways Bureau日本語: 日本国有鉄道 東京鉄道局, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:LtdExp_Hato_dept_celemony_in_Tokyo_Station_19521015.jpg

初めての阿房列車は東京から大阪への旅となります。時代は1950年代。戦後の復興が始まり特急列車なども戦前の状態を取り戻しつつありました。先生が乗り込むのは特急「はと」という展望車を含む豪華な列車でした。

下には2018年に「京都鉄道博物館」で展示された展望客車「マイテ49」の写真を引用させていただきました。ここでは(新潮文庫版の表紙のように)勇ましく展望デッキに立つ先生の姿をイメージしてみましょう。

旅のみちづれ

百閒先生のお供にはいつも「ヒマラヤ山系」という国鉄職員が同行しました。「年は若いし邪魔にもならぬから」との表現されるつかみどころのない人物ですが、先生とのすこしとぼけたやり取りがいい味を出しています。

ヒマラヤ山系のモデルとなっているのは法政大学時代の百閒先生の教え子・平山(ひらやま)三郎氏で、後に「実歴阿房列車先生(実歴阿房列車先生の風景その1など・参照)」などの回想録を執筆されています。ちなみに下に引用させていただいた写真の左側が平山氏です。

出典:実歴阿房列車先生、中公文庫、内田百閒と著者(左)、名古屋駅で停車中の「はと」で記念撮影(1958年6月5日 撮影・林忠彦提供・岡山県郷土文化財団)、中央公論社デザイン室

乗車までの楽しみ

「先に切符を買えば、その切符の日附が旅程をきめて、私を束縛する・・・・・・それでは今度の旅行の趣旨に反する」という「阿房列車」の方針に従い、先生は座席の予約をせずに山系君と2人で東京駅に向かいます。恐れていた通り、切符は売り切れていましたが、駅の助役に頼み込んでなんとか入手できました。

切符が買えて「うれしくて堪らない」先生は、山系君とともに(東京駅の構内にあった)精養軒食堂に入り「ウィスキイ」を飲みます。

下に引用させていただいたのは同じ精養軒が運営を手がける「上野精養軒」の写真です。このようなレトロな雰囲気の中に百閒先生と山系君を置き、さらに「こう云う時の一盞(いっさん)はうまい」と満足そうな先生の表情をイメージしてみましょう。

大阪への道程

はとガール

電車内の記述からも当時の様子をうかがうことができます。「ボイが出てきた。年配のおやじである。それで安心した」とあります。当時は特急の乗務員として女性が進出し始めた時代ですが、百閒先生は華やかな女性乗務員より経験のある男性乗務員がいいとのこだわりがあったようです。

下には引用させていただいたのは特急「はと」に添乗した「はとガール」の写真です。今の航空機の客室乗務員のような花形職業でした。

丹那トンネル

車窓の風景で印象的なのが丹那隧道(ずいどう)の通過場面です。先生は10年ほど前に旅をしたときに入口の壁にコウモリがたくさん張り付いているのを見たとのこと、今回もいるのではないかと展望デッキからのぞいてみました。

下に引用させていただいたのは近年のトンネル付近の写真です。今でもコウモリが住んでいてもおかしくない風情が残っています。

こちらのトンネルは16年に渡る難工事を経て昭和9年に開通しました。それまで御殿場線経由だった東海道線が熱海経由にショートカットしたため、50分もの時間短縮となったそうです。

食堂車

当時の特急は東京から大阪まで約8時間。12:30に東京を出発した列車は17:30くらいに名古屋を通過します。先生たちの楽しみの一つが食堂車での飲食です。名古屋通過後は夕飯時となり食堂車が混雑するのでその前から日本酒を飲み始めました。

名古屋に到着し食堂車から戻った先生はのどが渇き、食堂車から麦酒を取り寄せる場面も!数本飲んだところで大阪に到着します。

現在は一部のリゾート列車以外からは食堂車が消えてしまいました。下に引用したのは昭和初期の食堂車の写真です。先生の席はパントリ(キッチン)に近い窓際とあります。ここでは奥の右側に向かいあっている2人を先生と山系君に見立ててみましょう。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JGR_Dining_car.JPG

とんぼ帰りの列車旅行

行きは「一等車」で「用事がない」という先生の好きな条件がそろっていましたが、大阪から東京への車中では、帰らなくてはいけないという「用事」があり、しかも「二等車」のため今一つテンションが上がりません。割いているページ数も少なめで浜松駅でけん引車を蒸気機関車から電気機関車に変更しているのを見ている場面などが描かれています。

当時は鉄道の電気が大阪までつながっておらず、東京・浜松間は電車、浜松・大阪間は蒸気機関車が客車をけん引していました。そのため浜松駅には、けん引車両を切り換えるための扇形の機関庫が設けられていました。下のように1960年代の浜松駅周辺の航空写真からも扇形の機関庫が確認できます(中央下)。

ここでは、ホームの部分をズームアップし先生が手足を伸ばす先生の姿を置いてみましょう。また、山系君が先生のためにこちらのホームでバナナを購入しているところもイメージしてみます。

出典:出典:地理院地図、浜松駅付近、1961年~1969年
https://maps.gsi.go.jp/

旅行などの情報

SLやまぐち号

実際に百閒先生のような乗車体験がしたい方には「SLやまぐち号」がおすすめです。下に引用させていただいたように「マイテ49」をベースに復刻した一等車がSLにけん引されています。新山口から津和野までを約2時間かけて走り、汽笛を聞きながら田園風景をながめたり、駅弁を堪能したりと楽しみ方はさまざまです。

座席は展望デッキ付きのグリーン車をはじめ、レトロな復刻車両から選べぶことができます。詳細は公式サイトをご覧ください。運行は3月~11月の間で、土日祝日を中心に1日1往復となっています。

基本情報

【住所】山口県山口市小郡令和1丁目2(新山口駅)
【参考サイト】https://www.c571.jp/

上野精養軒

明治5年にできたフランス料理店・築地精養軒の支店として明治9年にオープンし、築地精養軒が関東大震災で被害を受けると精養軒の本店となりました。フランス料理の「グリルフクシマ」と洋食の「本店レストラン」の2タイプがあるので用途により使い分けられるのも便利なところです。

グリルレストランは上に引用させていただいた写真のようなゴージャスな雰囲気でフォーマルな会食にも適しています。また、カジュアルな本店レストランでは下に引用させていただいたようなパンダプレートが人気です。

基本情報

【住所】東京都台東区上野公園4-58
【アクセス】上野駅公園口から徒歩5分
【参考サイト】https://www.seiyoken.co.jp/

京都鉄道博物館

百閒先生が乗車した一等車両(マイテ49型2号車)を所有する博物館です。こちらの蒸気機関車コレクションは日本でも有数で下に引用させていただいたような扇形の車庫に展示されている様子は壮観です。ほかにも100系・500系の新幹線から特急、在来線まで多彩な車両が展示されています。

また、蒸気機関車への乗車や運転シミュレータなどの鉄道体験ができるのも特徴です。レストランや食堂車を模したブースも備えているので、食事の心配もなくゆったりと過ごせるでしょう。

基本情報

【住所】京都府京都市下京区観喜寺町
【アクセス】 JR京都駅から徒歩20分
【参考サイト】http://www.kyotorailwaymuseum.jp/

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