宮本輝「満月の道」の風景(その4最終回)

一からの出直し

房江は麻衣子が開店したそば店への招待を受け、城崎温泉でゆったりとした時間を過ごしました。「中古車のハゴロモ」の売り上げ急減は玉木の横領が原因と発覚、熊吾は運転資金を調達するため金策に走ります。また、熊吾が伸仁の誕生日に食事の約束を反故にして以来(満月の道の風景その3・参照)、久しぶりに伸仁と二人で外食をする場面も追って行きます。

出石そばの味見を

モータープールの事務所に丸尾千代麿から房江への電話があります。
千代麿「さっき、麻衣子ちゃんが子供をつれて城崎から訪ねて来てくれまして、房江おばさんに味見をしてもらいたいもんを持参してますねん。いまから車でお迎えにいってよろしおまっか?」
房江「何を味見するんです?」
千代麿「蕎麦と、二種類のつゆです。かけ蕎麦用のとざるそば用の二種類。出石の蕎麦ですねん・・・・・・昔から但馬の出石蕎麦は有名ですやろ?麻衣子ちゃんは、この半年間、出石の蕎麦屋で蕎麦打ちからだしの取り方までを教えてもらいよりまして、そこの主人に、ここから先はあんたの工夫でやっていけとお許しが出たそうで。房江おばさんからおいしいとお墨付きが出たら、城崎の『ちよ熊』を蕎麦専門の店に変えるそうです」

出典:写真AC、出石そば
https://www.photo-ac.com/main/detail/26597921&title=%E5%87%BA%E7%9F%B3%E3%81%9D%E3%81%B0

上に引用したように出石そばは、出石焼の小皿に載せて提供するのが一般的です。出汁はカツオとコンブの濃厚なダシが特徴とされています。

麻衣子が「ちよ熊」を蕎麦屋にリニューアルしようと決めたいきさつは以下のようでした。
「ちよ熊」店主のヨネが亡くなり、麻衣子と町会議員の不倫騒動もあって客足が遠のきます。店をたたもうとしていたころ、「城崎温泉に十日ほど逗留していた出石の蕎麦屋夫婦が店にやって来て蕎麦を註文した」とのこと。麻衣子が作った蕎麦に対し蕎麦屋(田端屋)の主人は
「こんなひどい蕎麦は食べたことがない」といいますが、以下のようなアドバイスもくれました。
「温泉町で成功する食い物屋は蕎麦屋だと思う・・・・・・夜も朝も、家では食べられないご馳走攻めで、昼はあっさりとしたものを少量食べたいと思うのは自分だけではあるまい。・・・・・・私が若ければ、この『ちよ熊』で蕎麦の専門店をやる。ここは場所もいいし、水もいい。蕎麦は水が命だ。」

出石蕎麦で「ちよ熊」を立て直そうと考えた麻衣子は出石の田端屋を訪ね、蕎麦づくりの修行をさせて欲しいと頼み込みました。

出典:ヒョーゴアーカイブス、出石辰鼓楼
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c612.html

上には出石伝統的建造物群保存地区のシンボルの一つ・辰鼓楼の周辺の写真を引用させていただきました。「出石の町から少し外れた農家の二階に間借り」した麻衣子は、半年間、「田端屋」への行き帰りにこちらの道を通っていたかもしれません。

房江は、麻衣子が出石で習得したオリジナルの出汁を少し上品な薄味に改良します。
麻衣子「私、房江おばさんの味を私の『城崎蕎麦』に決めるわ」

満月の道

城崎に戻り蕎麦屋「ちよ熊」を再開した麻衣子から以下のような手紙がきます。
「みんな、おいしいと褒めてくれる。お世辞ではないということはその顔つきでわかるので、自分の打つそばに自信が湧きつつある。房江おばさんがつゆの味を決めてくれたお陰だ。ぜひ泊りがけで城崎に来て、『ちよ熊』の蕎麦を食べてくれ。・・・・・・」

実は
「初めて麻衣子と逢ったときから先日の丸尾千代麿の家における再会まで、房江は麻衣子に良い感情を抱いていなかった。」
とのこと。
「気が強くて頑固で、男運が悪く、始末に悪いことに器量がいい。麻衣子の周りには下心むきだしの男たちの目がある。潔癖そうにふるまってはいても、男の扱い方を心得ていて、時に応じて媚を小出しにする。・・・・・・いくら周栄文の娘だからといっても、もう放っておけばいい。」
ところが、
「麻衣子の浦辺ヨネへの思いや、自分で城崎蕎麦を作りあげようと決めてからの行動力や、他人の目を歯牙にもかけない心の強さ」を知るにつれて彼女を見直し、徐々に親しみを覚えるようになっていきます。

出典:豊岡市役所城崎温泉課公式サイト、昔の「地蔵湯」
https://kinosaki-onsen.wixsite.com/kinosaki-onsen

上には昭和時代中期の城崎温泉・地蔵湯の写真を引用させていただきました。
「房江は城崎駅に午後三時過ぎに着くと、駅前の通りをまっすぐに温泉街の中心部へ歩き、地蔵湯の前の橋を渡って大谿側沿いに並ぶ旅館やみやげ物店の前に出た。割烹着姿の麻衣子が、栄子を抱いて柳の木の下で待っていた」
写真の右側の柳の下に麻衣子たちの姿を置いてみましょう。

「温泉町の人々は、麻衣子が妻も子もある町会議員の子を産んだことを知っている。こんないなか町でなくても、人々は麻衣子とその子に蔑みと非難の視線を浴びせるであろう。だが、この麻衣子の、自分への目を歯牙にもかけず、屈託なく撥ねつける堂々たる立ち姿は、いったい何から生じてくるのだろう。房江は、そう思って、しばらく麻衣子の笑顔から視線を外すことができなかった。」

麻衣子が蕎麦屋の深夜営業の準備、房江がお風呂に入りに行くため二人で駅前通りを歩く場面があります。
「大きな満月・・・・・・。大阪の街では見られへんわ。このあたりは、やっぱり空気がきれいやからねェ」
下には城崎温泉の中心部で開催されるお月見の写真を引用させていただきました。

「ちよ熊」で麻衣子を手伝った房江は接客の能力も発揮します。
客「おいしいだしやなァ。蕎麦の香りも本物や。おばちゃん、ここの蕎麦はたいしたもんやで」
その客は麻雀用の離れ部屋がある旅館に泊まって、得意先を接待しているとのこと。
房江「麻雀をしてはったら、夜中にお腹がすきますから、ちょっと休憩して、みなさんでお越しになったらどうです?十一時まであけてます・・・・・・二、三荘(ちゃん)終わってお腹がすくころにこのお店に来てください」
客「おばちゃん、麻雀を知ってるのかいな」
房江「昔、大阪で雀荘をやってましてん。メンバーが揃わんときは代打ちもしました」
客「代打ち?そりゃプロやぞォ」
十五分ほどたつとその仲間たちも「ちよ熊」にやってきました。

蕎麦屋の深夜営業が終わると、房江は麻衣子とともに帰りながら城崎大橋の欄干のところに立ちます。下には城崎大橋の下を流れる円山川周辺の夜の写真を引用させていただきました。こちらを見ながら、麻衣子と房江の会話を抜粋してみます。

麻衣子「ほら、あそこまで傾いてしもてるわ」
「麻衣子の指さす中空に満月があった。・・・・・・長いこと無言で満月に見入っているうちに、風の音の源が、河口でも海でも山の麓でもなく、夜空全体であるような気がしてきて、房江は、私が捨てたあの子は幾つになったのだろうと考えてしまった」
とあります。

麻衣子「房江おばさん、城崎にしょっちゅう遊びに来てね」
房江「うん、こんどは十月に来るわ」
麻衣子「十月なんて言わんと、来月もおいで」
房江「主人のご飯もこしらえなあかんし・・・・・・ああ見えて寂しがりねん」

「私も私生児、私の子も私生児」
と「麻衣子がつぶやいたような気がした」

売り上げ低迷の原因は?

熊吾はある日、仕入れ担当の黒木から「他の社員に聞かれるとまずい事柄なので、ふたりだけで話をしたい」という電話を受けます。いつもの鶏すき屋で会った黒木は「自分が広島で買ってきた一九六〇年型のルノーは七万八千円という価格をつけた」にもかかわらず「五万円で」売られていたといいます。下には1961年型のルノーの写真を引用させていただきました。

黒木は「経理と在庫管理を一手に握っている」玉木なら「売れたのに、売れたと書かずに、金だけを」とることできるといいます。熊吾と黒木は、不正が行われた証拠を得るために事務所に向かいました。

事務所にて
熊吾「帳簿を見て、買うた車と、それが売れた日付を書いてあるノートとを照らし合わせるか」
そのとき、事務所に上がってくる玉木の足音が・・・・・・

公的資金を頼って

本物の帳簿を見て「わしの会社には、いま三十二万八千円しかないのか?」と驚いた熊吾は、議員秘書の徳沢邦之から低金利の公的金融機関を紹介してもらおうと考えます。徳沢は「S国際ゴルフ倶楽部」の副支配人という肩書を与えられ、石橋駅前の事務所に詰めていました。下には、昭和39年ごろの石橋駅の写真を引用させていただきます。考えごとをしながら電車に乗っていた熊吾は、乗り過ごしそうになり、慌ててこちらの駅に下車しました。

出典:今昔写語公式サイト、石橋駅/宝塚線、1964年
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=5897

徳沢は「親分」についてこのようにいいます。
「親分を大臣にしたことで自分の夢もかなった。もうこれ以上は望まない。情に厚い、面倒見のいい、政治家にしては善人すぎる親分だが、総理総裁の器ではないし、それは本人もわかっているのだ」

下には当時(昭和38年5月ごろ)の内閣(第2次池田第1次改造内閣)の写真を引用しました。佐藤栄作氏や三木武夫氏など後日、総理大臣になる方たちに混じって徳沢の「親分(のモデル)」も写っていると思われます。

出典:内閣官房内閣広報室, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hayato_Ikeda_Cabinet_19610718.jpg

徳沢は親分の運転手を務めていて、今は「商工中金という政府系の金融機関」の大阪支店に転職した友人を紹介してくれるとのこと。ところが、「あしたにでも電話で話を通しておく」という悠長な姿勢に気を落とします。
「政府系の金融機関の融資は迅速に進みそうもないという気がしてきた。所詮は役所仕事なのだ」

再び伸仁の誕生祝い

徳沢のところで伸仁の話題がでたことで、伸仁の16歳の誕生日を祝ってあげられなかったこと(「満月の道」の風景その3・参照)を思い出します。熊吾は、「明洋軒」といういきつけの洋食屋で伸仁と待ち合わせました。伸仁は「ポタージュスープとビフテキと温野菜のサラダを」、熊吾はタンシチューとポタージュ、ビールを註文します。

下には分厚いお肉の入ったタンシチューの写真を引用させていただきました。

出典:写真AC、タンシチュー
https://www.photo-ac.com/main/detail/1224029&title=%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC

伸仁は「・・・・・・ぼくはこのごろ暗いけど」と悩んでいる様子です。
訳を聞いたところ「中学時代からとりわけ仲の良かった三人が退学になってしまった」とのこと。

熊吾「三人は何をやったんじゃ」
伸仁「スクールバスの座席の背凭れに付いている金属製の灰皿を外しよってん」
熊吾「たかが灰皿でも、盗んだら立派な窃盗じゃぞ」

下に引用させていただいたのは昭和時代には一般的についていたバスの灰皿の写真です。

三人はドライバーを使わずに灰皿を外すことを競っていましたが、後ろから見ていた伸仁が「早く元に戻せ」といったのを「早く隠せ」と聞き違えて鞄に入れてしまいます。友人たちは伸仁が巻き添えになることを恐れて、伸仁が声をかけたことは黙っていたとのことです。

ここでは友人を思って泣く伸仁に、熊吾がタンシチューを分け与えるシーンをイメージしてみます。

淀屋橋からの満月

食事を終えた熊吾たちが梅田新道付近を歩いていると、伸仁が「『柳のおばはん』の店をひとりでばらばらに壊してしもた人」がいると指差します。熊吾も、縁日で買ったお面をかぶった伸仁に対し「そのお面は、坊によく似てござるな」と声をかけてきた「頬髭の大男」を思い出します(血脈の火の風景その6・参照)。

曽根崎新地の本通りを過ぎたあたりで、三、四十メートル向こうに、周りの通行人よりも頭ふたつ分ほど背の高い、異様に肩幅の広い男のうしろ姿が一瞬目に入った。」

出典:今昔写語、梅田新道、1960年
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=5815

上には曽根崎新地線と御堂筋が交わる梅新南交差点付近からと思われる写真を引用させていただきました。こちらのどこかに「頬髭の大男」の姿を置いてみましょう。伸仁は「夜の御堂筋を淀屋橋のほうへ小走りで」大男を追いますが、結局見失ってしまいました。

「熊吾と伸仁は大江橋を渡り、さらに南に歩いて土佐堀川に架かる淀屋橋の真ん中へ行った」とのこと。上に引用させていただいたのは昭和30年代の淀屋橋の写真です。夜空を眺めながら交わされた二人の会話を抜粋してみます。
熊吾「ここから月見をしようと思うたが、今夜は曇っちょるのお。雲はきれそうにないぞ。今夜のわしらには月見の運はなかったが、房江の城崎での月見のための厄落としじゃ。見えん月を見るのも月見じゃけんのお」
伸仁「京都の能楽堂でみた『月見座頭』やろ?・・・・・・あの狂言をやってるあいだ、お父ちゃんは寝てたやろ?いびきを止めようと思うて何回も脇腹をつついたんやで」
熊吾「いねむりをしながらも心眼で観ておったのでござるよ」

旅行などの情報

出石皿そば近又(きんまた)

麻衣子が修行をした出石の蕎麦屋さんのモデルは不明ですが、ここでは江戸時代から続く人気のお店「近又」さんをご紹介しましょう。こちらではそばの実を皮ごと石うすで挽いた香りの高い黒いおそばが名物となっています。

小皿で少しずつ提供される伝統的な出石スタイルで、大人なら20皿、小学生以下は 15皿を完食すると、上に引用させていただいたような蕎麦通認定手形がもらえます。塩やつゆ、とろろ、卵などで味変させながら、出石蕎麦をご堪能ください。

基本情報

【住所】庫県豊岡市出石町本町99
【アクセス】播但連絡道路・和田山ICから車で約40分
【関連URL】https://kinmatasoba.jp/

淀屋橋

「満月の道」の終盤で熊吾と伸仁が夜空を眺めるシーンで引用した橋です。「流転の海」シリーズではお馴染みの土佐堀川にかかり、江戸時代の材木商・淀屋が自費で建てたのが始まりとされています。現在の橋は昭和10年に完成したもので外観は熊吾の時代とあまり変わっていません。ただし、周辺のビルの数は増えているため、夜景は当時よりだいぶ明るくなっていると思われます。

周辺には国の重要文化財に指定された「大阪市中央公会堂」もあり展示室など一部は無料で見学が可能。また、有料のガイドツアーも行われています。

基本情報

住所:大阪市北区中之島1丁目~中央区北浜3丁目間
アクセス:淀屋橋駅からすぐ
参考URL:https://osaka-info.jp/spot/yodoyabashi-bridge/

月見座頭

最淀屋橋で熊吾と伸仁が話題にした「月見座頭」とは狂言の演目の一つです。月のきれいな晩に座頭(盲目の人)が虫の音を聴いていたところ、通りがかった男と意気投合し酒宴を楽しみます。ところが同じ男が突然心変わりして引き返し、声を変えて座頭にけんかをしかけるというストーリーです。

狂言は全国の能楽堂や能舞台で開催されています。ご覧になりたい場合は「月見座頭」で検索し、お近くの施設にてお楽しみください。