井上靖「しろばんば」の風景(その5)

洪作をとりまく女性たち

今回は洪作の周辺に登場する女性たちに視点を当てていきます。沼津の親戚の家では我が儘いっぱいに育った姉妹の言動に驚かされます。また、叔母のさき子との悲しいお別れも「しろばんば」前半の最後を飾る悲しい場面です。時は少し飛び、小学5年生になった洪作が都会から転校してきた少女に出会うところまでを追ってきましょう。

沼津の親戚訪問

「かみき」について

6月になると洪作は、おぬい婆さんと一緒に沼津へ2泊の旅行に向かいます。目的の一つは洪作に「かみき」という屋号の親戚の家を訪ねさせることでした。実際に井上靖氏の親戚の家があったところで、「沼津でも指折りの大きな商家」と表現されています。

大正時代の沼津は狩野川の河口が船着き場となっていて、下の写真のような大きな蔵が立ち並ぶ都会でした。そして、「しろばんば」の続編「夏草冬濤(・・・の風景その1・参照)」や「北の海(・・・の風景その1・参照)」のメインの舞台にもなります。ここではこのような街の中を「何となく気の退ける肩身の狭い気持ちで」親戚の家に向かう姿をイメージしてみましょう。

出典:永見徳太郎 編『珍らしい写真』,粋古堂,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688806 (参照 2023-12-25、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1688806/1/85

きらびやかな姉妹

「かみき」は祖母の関連の親戚で、蘭子とれい子という洪作より少し年下の姉妹がいます。初対面の際の彼女たちの印象は最悪でした。以下は妹・れい子との会話の抜粋です。
れい子「あんた、だれ?」
洪作「洪ちゃだ」
れい子「洪ちゃなんて子知らないわ・・・・・・どこから来たの」
洪作「湯ヶ島だ」
れい子「湯ヶ島。そんなとこ聞いたことないわ。草が生えていて、お墓のあるところよ。田圃ばかりで、人なんて、少ししか居やしない」

その後、彼女たちに「千本浜」に連れて行ってもらい「うわぁ、海だ!」と絶叫する場面があります。下には大正時代の名勝地写真集から千本浜の部分を引用しました。ここでは、この砂浜に洪作と姉妹を置き、姉の蘭子が「まあ!驚いた!海を初めて見たの?そう」と「感嘆と軽蔑の入り混じった眼で、洪作を見つめる」というシーンを想像してみます。

出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』奥羽・中部地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967083 (参照 2023-12-25、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/967083/1/35

初めての買い食い

洪作は海に行った帰り、れい子に誘われて駄菓子店に入り、生まれて初めての買い食いをします。駄菓子屋をはしごして「みかん水」や「ラムネ」、「落花生」、「ところてん」といった普段はめったに口にしないおやつをおごってもらいました。

ちなみに「みかん水」は現在ではあまり馴染みがありませんが、洪作の頃には駄菓子屋では普通に置いていた飲み物です。下に引用させていただいたように銭湯などでは今でも飲むことができます。

ここでは洪作たちが店先で美味しそうにこちらの飲み物を飲んでいる姿をイメージしてみましょう。なお、食べ合わせが悪かったのか食べ過ぎたのかは不明ですが、この後二人は体調不良に見舞われることがに・・・・・・。

叔母・さき子

さき子と基は怪しいぞ

「しろばんば」の前半では叔母・さき子の死が洪作にとって最も大きな出来事です。時系列的に他の出来事と前後しますが、ここではさき子とその周囲の風景をまとめて追ってみましょう。

洪作の小学校で教鞭をとることになったさき子は、「隣村の中狩野村の医者の息子で・・・・・・二年前から代用教員として湯ヶ島の小学校に勤めていた」中川基と恋愛関係になりました。村の子供たちの間では「さき子と基は怪しいぞ」というフレーズが流行ります。

話は脱線しますが下に引用させていただいたブログによると、中川基先生のモデルになった中島基氏は湯ヶ島小のあと、大正11年に青森中学に赴任したとのことです。青森中学には次の年(大正12年)に太宰治氏(人間失格の風景その1・参照)が入学していますので、中島基氏とも何らかの接点があったかもしれません。

安藤裕夫「しろばんばの教師たち」(藤沢全編著『井上靖 グローバルな認識』大空社、2005年所収)によりながら、見ていくことにします。
(中略)
洪作の叔母さき子の恋人であった大学出の代用教員・中川基ですが、こちらも中狩野村(当時)の医者の息子であった中島基氏がモデルであることは明らかです。
(中略)
当の中島氏も大正十一年(一九二二)八月に湯ヶ島尋常高等小学校を退職し、青森県立青森中学校(現・県立青森高等学校)教諭として赴任していきました。

出典:小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ、『しろばんば』その2 湯ヶ島の教師たち
https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/07/18/124435

夏休みになると恋仲になったさき子と中川基が神社の境内でデートをする場面があります。西平の湯から帰る途中で、さき子にお供してきた洪作とおみつも一緒です。

下にはその舞台になった天城神社の写真を引用させていただきました。ここではさき子と中川基を本殿側面の廻廊に置き、「さき子と中川基は荒れた本殿の廻廊に並んで腰かけ、足をぶらぶらさせながら話していた」という場面を想像してみましょう。そして後方の木々の周辺には「木にたかっている蝉を探して、それに石をぶつけていた」洪作がいて、「さき子が中川基と、自分たちのことは忘れて熱心に話していることが妬ましくもあった」と述べています。

村のうわさ

十二月になると村人の間からは「さき子が妊娠した」という噂が流れだします。村の女たちが「眼を輝かせ、口を尖らせ、顔を寄せ合って声をひそめて(さき子のことを)喋った」のに対し、男たちは「専らさき子ではなくて、中川基の方を罵倒し・・・・・・教職から追うべき」という人もあったようです。

中川基は責任をとる形で「半島の西海岸の村の学校へ転任することになり」、また「さき子と中川が祝言を挙げた」ことにより、「一応村人たちを納得させ、彼らの好奇心を静めた」とあります。

下には中川基が新学期の前日、任地に向けて旅立った馬車の駐車場跡の写真を引用しました。ここでは、洪作の友人と「上の家」の家族のみに見送られ、静かに出発する中川先生の姿をイメージしてみましょう。

不治の病に

六月頃、さき子と久しぶりに共同湯にいった洪作は「さき子の体が蝋のように蒼白くなって、しかも見違えるように痩せているのを見た」とあります。そして、しばらくすると「子供たちの口から、さき子が肺病だという噂」が聞こえはじめました。

気になった洪作は上の家の2階で療養中のさき子を訪ねますが、当時は不治の病といわれていた伝染病だったため戸を開けてくれません。「開けて!」としつこく食い下がる洪作ですが「次の瞬間ぱっと細めに唐紙が開いたと思うと、さき子の白い腕が一本飛び出して来て、洪作の頭をぽんと軽く叩くと、すぐまた引っ込んで、唐紙は再び閉められてしまった」とあります。

下はストリートビューで上の家の2階部分をズームしてみました。こちらの家のなかの唐紙をはさんで、洪作とさき子が会話をしたり、洪作が頭を叩かれたりしている場面を想像してみます。

さき子とのお別れ

さき子は六月中に中川基の赴任先に行き、一緒に暮らしながら療養することになりました。見送った洪作に「あんた、勉強するわね。他の子と違って、洪ちゃは大きくなったら大学へ行かんならん」と言葉をかけて去っていきます。さき子の回復を願う洪作の願いも届かず、夏休みのある日「さき子姉ちゃん、死んだと」と、おみつからの報告を受けました。

「さき子の葬式が行われる日」、洪作は「天城の峠へ、そこにあるトンネルを見るために出かけ」ます。湯ヶ島~旧天城トンネル間は10km以上の距離ですが、「辛いことを自分に課したい気持ちに襲われていた」洪作は、休みなしに行く歩くことを決意し、仲間にも伝えました。そして一緒についてきた二十人の子供たちも歩き通す決意を示すため「着物を脱いで裸体になった。そして脱いだ着物は帯で束ね、それぞれ勝手な持ち方で持った」とあります。

行く途中、洪作が幸夫に「さき子姉ちゃ、死んだぞ」と告げると、幸夫は「知っていらあ」といい、「なむまいだ、なぬまいだ」と唱えます。「すると、それに続いて、異様な風体の子供たちは、ひとしきり、『なむまいだ、なむまいだ』と唱えて、幸夫に和した」とあります。

下は現在も当時の姿をとどめる「天城山隧道(旧天城トンネル)」の写真です。ここでは裸の子供たちがトンネルのなかを歩きながら、さき子の死を悼んで行進している光景を想像してみましょう。

出典:Katorisi, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_Amagi_tunnel_Izu_city_side_entrance,Izu_city,Japan.jpg

都会からの転校生

長編の「しろばんば」もこのあたりから後編に入り、洪作も小学5年生になっています。夏休みの終わりに近いある日、上の家の向かい側にある「帝室林野管理局天城出張所」に新しい所長が着任しました。「帝室林野管理局」とは皇室財産であった御料林の管理経営を行っていた役所で、戦後に廃止されています。

「所長さんには六年生の女の子と三年生の男の子がある」とのこと。二人(名前はあき子とこう一)とも色が白く「自分たちとは違った上等の階級の人間に見えた」とあります。御料局のあった場所は現在「しろばんばの里公園」となっていますが、2012年6月のストリートビュー(下図)には2棟の建物がまだ残っています。ここでは、右側にある洋風の建物の2階にその姉弟の姿を置いてみましょう。

朝顔

「二学期が始まって一週間程した最初の日曜日の朝」おぬい婆さんは洪作に「きれいな朝顔が咲いたから、所長さんの家へ上げておいで」といいます。おぬい婆さんの育てる朝顔は他の家のと比べて「大輪でもあったし、色も鮮やかだった」とのこと。その日咲いている朝顔も「目の覚めるような藍色の大輪」とあります。

下にはそのような大輪の朝顔の写真を引用させていだだきました。ここでは「まあ、きれい!」と驚くあき子と「きれいな少女がきれいな表情をとったというただそれだけのことで、洪作は自分の顔が赤くなって行くのを感じた」というシーンを想像してみましょう。

出典:Cristian V., CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Morning_glory_with_water_drops.jpg

旅行の情報

千本浜公園

「かみき」の蘭子やれい子とともに洪作が初めて海をみた場所です。目の前には駿河湾が広がり、下の写真のように晴れていれば富士山までの眺望が見事です。10kmも続く「千本松原(写真右側)」には散策ルートも整備されていて、井上靖の文学碑や若山牧水の歌碑などを巡りながらのウォーキングを楽しめます。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/809811&title=%E5%8D%83%E6%9C%AC%E6%B5%9C%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1

基本情報

【住所】静岡県沼津市本字千本1910-1
【アクセス】JR沼津駅から東海バスに乗り換え、千本浜公園で下車
【参考URL】https://www.jalan.net/kankou/spt_22203ah3330041425/

天城山隧道(旧天城トンネル)

さき子のお葬式の日に幸夫たちと一緒に行った場所です。川端康成の小説「伊豆の踊子」の舞台としても知られ、近くには「伊豆の踊子文学碑」も設置されています。天城越えのメインルートは新天城トンネルに譲っていますが、1905年(明治38年)オープン当時の姿をそのままとどめる貴重なトンネルで、国の重要文化財にも指定されています。

なお、トンネルの観光はできますが、河津側が通行止め(令和6年3月31日まで)のため通り抜けはできませんのでご注意ください。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ヶ島
【アクセス】東名沼津ICから国道136、414号線などを経由
【参考URL】http://kanko.city.izu.shizuoka.jp/form1.html?pid=2465

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