宮本輝「流転の海」の風景(その1)
伸仁を授かる
「流転の海」シリーズは宮本輝氏の父・熊市氏を主人公・松坂熊吾(まつざかくまご)のモデルとした小説です。シリーズ第一部の「流転の海」は1982年から連載が開始され、第九部「野の春」(「野の春」の風景・参照)をもって完結しました(2018年)。
戦後の昭和22年、熊吾は「松坂商会」再開のため元番頭の井草に会いに岐阜に行きます。その帰り道、大阪駅から見たのは一面に広がる闇市の風景でした。神戸の自宅に帰ると男の子(伸仁)が生まれたといううれしい知らせが!伸仁の栄養をつけるため舶来の粉ミルクを調達しようと、かつての弟分・海老原を尋ねます。
登場人物
こちらの小説は登場人物が多いため、先ずは前半の主要なキャラクターを紹介しておきましょう。他にも一癖も二癖もある人物が出てきますが、その都度、説明を加えていきます。
松坂熊吾・・・この物語の主人公。愛媛県南宇和郡から大阪に出て、自動車の中古部品会社・松坂商会を立ち上げる。戦前は業績を伸ばすも第二次大戦で財産を失う
松坂房江(ふさえ)・・・熊吾の妻
松坂伸仁(のぶひと)・・・熊吾と房江の子。宮本輝氏がモデル
海老原(えびはら)太一・・・同郷の熊吾を頼り上阪し松坂商会に勤務。その後立ち上げた亜細亜商会が軌道に乗る
井草正之助・・・松坂商会の元番頭。会社の空襲被害後、故郷岐阜に引き上げる
辻堂忠・・・闇市で熊吾と出会う。後に松坂商会の社員となる
映画化もされています
こちらの小説は1990年に東宝によって映画化され、下に引用させていただいたようにビデオ(VHS)も発売されました。出演されていたのは以下のような俳優さんたちです(敬称略)。
松坂熊吾・・森繫久彌
松坂房江・・野川由美子
海老原太一・・西郷輝彦
井草正之助・・藤岡琢也
辻堂忠・・佐藤浩市
大阪の闇市
熊吾は戦前に「松坂商会」を立ち上げ、「毎日確実に四十万円の純利益をあげ」るまでに成長しますが、空襲により本社の松坂ビルは跡形もなくなっていました。
「松坂ビルは、空襲の前まで、淀屋橋から大阪駅へ少し戻った御堂筋の東側に建っていた」
とのこと。
下には大阪大空襲により焼け野原になった大阪駅前の写真を引用させていただきました。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Osaka_station_disastrous_scene_of_after_Great_Osaka_Air_Raid.jpg
松坂商会の業務内容や解散のいきさつについては以下のように説明されています。
「松坂ビルは、乗用車やトラックの車輛とか、ベアリングやフライホールといった自動車部品を中国に輸出する事務所兼倉庫として活気を呈していたが、戦争が始まると、社員たちの何人かは徴兵され、多くの中国人の友人も祖国に帰り、国交は断絶されて、会社はいやおうなく閉鎖せざるを得なくなった。日中戦争から、やがて太平洋戦争へと拡大されていくと、熊吾は故郷である愛媛県の宇和島の南に妻とともに疎開し、戦争の終わるのを待った」
ゼロからの出発
戦争が終わると熊吾は、新しい事業を起こすために行動を開始します。まずは、番頭であった井草正之助の出生地・岐阜を訪ね、大阪に戻るように説得しました。
そして
「汽車は、十五時間かかって、岐阜から大阪駅に着いた」
神戸方面への乗り換えのため大阪駅のホームに立つと、
「大阪駅のホームからは、闇市の夥しいバラックが見えていた。一面、闇市といってよかった。」
とあります。
上に引用させていただいたのは1946年の梅田の闇市「梅田自由市場」の写真です。こちらの写真のなかに「流転の海」に描かれているような
「古びた軍帽をかぶった男たちやソフト帽を頭に載せた男たち、モンペを穿いた子連れの女や黒人兵の腕にまとわりついている厚化粧の娘たち」
を探してみましょう。
このような風景を見た熊吾は以下のような感想を抱きました。
「暗い不安な翳を投げかけたかと思うと、ふいにそれが活気に満ちた平和な営みであるかのような眩さを与えるのだった」
自宅の様子は?
熊吾は空襲の激しかった大阪を避け、神戸の六甲道駅の近くに住んでいました。熊吾の自宅は石屋川沿いから少し離れた場所とのこと。下には近年の石屋川周辺の写真を引用させていただきました。
上の写真のように、現在の石屋川周辺は桜のきれいな場所として知られていますが
「空襲の日、黒こげになった死体で埋まったという石屋川には、六甲山からの清涼な湧き水が藻を揺らしながら浅く流れていた」
とあるように空襲の被害が甚大でした。
また
「B29の落とした焼夷弾で阪神間は焼け野原になったが、二年たって、少しずつ家が建ち始めた。だが十三坪以上の家は建ててはならぬという国からの命令で、石屋川添いの家はどれも広い敷地の中にぽつんとつつましく建っていた」
とあります。
以下の上側には戦後まもなくの1945年から1950年ごろの石屋川駅(十字マーク)付近の空中写真を引用させていただきました。駅を南北に横切るように流れているのが石屋川です。熊吾の家は「坂をのぼっていき」とあるので、駅の北側にあったと推測してみましょう。その下側の写真(2009年)と比べても、小さな家が点在する状況であったことがわかります。
出典:国土地理院空中写真(石屋川駅周辺、1945年~1950年(上)、2009年(下))
予定よりもひと月も前に
熊吾が自宅に戻ると、出産予定よりも1か月も早く子供が生まれたとのこと。以下には小さな赤ん坊を見た熊吾と房江の会話を引用します。
熊吾「頭、茶瓶やなァ」
房江「頭、茶瓶さんやのに、眉毛だけはこんなに太いのが生えてるねん。あんたそっくりの眉毛で、気持ち悪いくらいやわ」
熊吾「俺の息子の証拠やけん」
下には熊吾のモデルとなった熊市氏と房江のモデル・雪恵さん、一歳の頃の宮本輝氏の家族写真を引用させていただきました。
出典:NHK公式サイト、science&culture journal、宮本輝 執筆37年 「昭和の庶民史」の先に
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/11/story/special_181128/
ここでは
「太い眉ときつい目、獅子鼻と薄い唇、二十貫近い固太りの体躯などによって作りだされている熊吾の、一種獰猛とさえも言える顔立ち」
と表現される熊吾の顔が少し緩むシーンをイメージしてみましょう。
子供の名前は?
数日間考えて熊吾が子供に付けた名前は「伸仁」でした。
「敗戦までは、名前の下に<仁>という字をつけてはならないきまりになっていた。<仁>という字は皇室の人間しか使えなかったのである」
出生届けを出しにいった役所で、係員は名前を少し気にするそぶりを見せると、
熊吾「のぶひとと読む。何か文句があるのか」
係員「どんな名前をおつけになっても自由です。時代は変わりましたから・・・・・・」
役所を出ると、熊吾は闇市で埋められた三宮駅方面に向かって歩きます。「カード下からも、少し離れた商店街の跡からも『啼くな小鳩よ』がひっきりなしに聞こえていた」とのこと。
上に引用させていただいたように、戦前・戦後期の国民的歌手・岡晴夫さんが歌われていました。
粉ミルクの調達に
熊吾は三ノ宮の雑踏を更に進んでいきます。元松坂商会の社員で、今は亜細亜商会の社長となった海老原太一を訪問するためでした。
「熊吾は群衆を縫って、港のほうに向かって歩いた。三ノ宮も完全に消失したが、神戸港の手前に一軒、ぽつんと奇蹟的に罹災をまぬがれた三階建てのレンガ造りのビルがあった」
とのことです。
下には空襲後、現在の中央区多聞通から神戸港方面を臨んだ景色を引用させていただきました。こちらの写真から以下のシーンを想像してみましょう。
「熊吾は周囲のだだっ広い空地と、<亜細亜商会>の看板のかかげられたレンガ造りのビルを見やって『運がええ男じゃ』とつぶやいた」
出典:神戸市役所公式サイト、写真から見る戦災、現・中央区多聞通
https://www.city.kobe.lg.jp/a44881/bosai/disaster/war01/war03/war03_17.html
熊吾「太一はおるか」
海老原「階段がつぶれますよ。大きな声に、元気の良すぎる階段ののぼり方や」
「海老原は冗談めかして笑っていたが、その笑いの底に、あきらかに熊吾よりも上位に立っているという自信と驕りが見て取れた」
熊吾「頼みがあるんじゃが・・・・・・お前のところで粉ミルクは手に入らんかのお」
熊吾は子供が生まれたことを報告し、房江の乳の出が悪いため舶来の粉ミルクが欲しいのだと説明します。
海老原「そんなのお安い御用でっせ。すぐに届けさせます・・・・・・何かいいお祝いをさせてもらいますよ」
と笑顔で答える海老原でした。
出典:山城紙業株式会社、ブログ、本の紹介、流転の海
https://yamashiro-paper.jp/2021/05/18/%E6%B5%81%E8%BB%A2%E3%81%AE%E6%B5%B7/
ところが、心の中では
「晴れのビル新築祝いの席で恥をかかされた恨みを忘れてはいなかった」
とのこと。
その祝いの席での事件とは以下のようなものでした。
それまで「大将」や「松坂のお父さん」と熊吾のことを呼んでいた海老原が、パーティーの席では周囲の目を意識し「松坂さん」と呼んでしまった。
熊吾はテーブルの上にあったローストビーフを海老原に投げつけ、「うぬぼれるな。お前なんかまだ小僧だ」と海老原が土下座して謝るまで許さなかったとのこと。
上に引用させていただいたのは、森重久弥さん演ずる熊吾が、手前にいる海老原太一(西郷輝彦さん)に向かって怒りをぶちまけているシーンです。なお、その後ろでは井草役の藤岡琢也が心配そうに見守っていました。
海老原の熊吾に対する「恩と仇とのふたつの感情」は「流転の海」シリーズの一つの流れとなっていきます。
旅行などの情報
宮本輝ミュージアム
宮本輝氏の母校・追手門学院大学の附属図書館内にある施設です。常設展では宮本輝氏の原稿などの愛用品が展示されているほか、主に宮本作品に関する企画展が実施されます。詳細な展示内容については下に引用させていただいた公式SNSなどでご確認ください。
また、こちらの大学は「流転の海」第九部「野の春」や「青が散る」の舞台にもなっています。「松坂伸仁」や「椎名燎平」の姿を思い浮かべながらキャンパスの散策も楽しんではいかがでしょうか?
基本情報
【住所】大阪府茨木市西安威2-1-15
【アクセス】JR茨木駅からバスを利用。約20分の追手門学院前で下車
【参考URL】https://library.otemon.ac.jp/teru/
石屋川公園
熊吾の自宅があった石屋川の周辺は空襲の被害が大きかったところで、野坂昭如(のさかあきゆき)氏原作の「火垂るの墓」の舞台にもなりました。下に引用したように石屋川公園のなかには「火垂るの墓」の石碑があり、戦争の悲惨さを伝えています。
出典:Masahiko OHKUBO from Kobe, Japan, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%9F%B3%E5%B1%8B%E5%B7%9D%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AB%E3%81%A6%E3%80%82_(50232011751).jpg
また、公園に隣接する「御影公会堂」は空襲や阪神淡路大震災にも耐えた国の登録有形文化財です。資料室や食堂などもあるので、中に入ってレトロな雰囲気を味わってみてください。
出典:Show ryu, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mikage_Public_Hall,_Kobe,_Japan.JPG
基本情報
【住所】兵庫県神戸市東灘区御影石町4丁目9-3
【アクセス】石屋川駅から徒歩で約5分
【参考URL】https://www.kobe-park.or.jp/kouen_keikaku/2018/11/05/%E7%9F%B3%E5%B1%8B%E5%B7%9D%E5%85%AC%E5%9C%92/
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