宮本輝「野の春」の風景(その4)

「大将」の仕事に奔走

時代は昭和42年後半、「いざなぎ景気」により国民の生活は豊かになっていきますが、学生運動の激化など暗いニュースもありました。熊吾は「大将」としての仕事を果たすため佐竹や博美、木俣などの面倒をみるため忙しい毎日を送っています。また、「デコボココンビ」というあだ名をつけられた房江とタネの姿も追ってみましょう。

やかんのホンギが退職

「四時に『ヤカンのホンギ』こと洪弘基と桜橋の鶏すき屋で待ち合わせをしていた。ホンギはことし一杯でカメイ機工を退職するという。会社は慰留してくれているのだが、なんとか人並みに余生というものを楽しむだけの蓄えができたし、退職金も貰える。・・・・・・そのことで大将に相談がある」

下には昭和40年前後と思われる桜橋交差点付近の写真を引用させていただきました。こちらの写真のどこかに待ち合わせをしていた「とり門」という鶏すき屋を探してみましょう。「とり門」は衆議院議員の私設秘書・徳沢(花の回廊の風景その3・参照)から紹介されて以来、「年に三、四回は使ってきた」なじみのお店でした。

出典:大阪駅前第一ビル公式サイト、桜橋交差点付近から見た曽根崎商店街。まだ、路面電車が走っています。(大阪駅前第一ビル振興会20周年記念誌より)
https://www.1bld.com/history/history_02.html

ホンギは退職するに当たって後任を紹介してくれと頼まれたとのこと。
ホンギ「私が推薦する人間なら、カメイ機工としてはなんの文句も言わずに引き受けると言ってくれました。松坂の大将、誰かを推薦してください。私には推薦できるような知り合いはないです。誰とも友だちづきあいもないですし」
熊吾は移転が予定されている「大阪中古車センター」の管理人をしている佐竹善国を紹介します。

熊吾「わしが自信を持ってカメイ機工に推薦できる男がひとりおるが、右腕がない。しかし、両腕を使えるやつよりも力は強いし、一本しかない左腕の使い方はじつに器用じゃ。人柄も働きぶりも申し分ない。この四年間、わしの大阪中古車センターで夜中の守衛をしちょる。一度も事故はない。女房と小学生の子供がふたりおる。年はことし四十六になるはずじゃ。子煩悩で酒は飲まん」
ホンギ「わかりました、その人に次のホンギになってもらいます」

出典:建築世界社 [編]『数寄屋建築』,建築世界社[ほか],昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1264410 (参照 2024-10-09、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1264410/1/6?keyword=%E5%BE%85%E5%BA%B5

会話の間、「ホンギはときおり小さく頷くだけで、熊吾から視線を外さなかった」
熊吾「どうもお前と話しちょると、警察の取調室で刑事に尋問されちょるような気になってくるのお。ホンギ、お前、その怖い顔を、ちょっとでも優しくすることに努力せえ。お前の老後の課題はそれじゃ」
と言いつつも、かつて、ホンギの借家に儲けられた茶の湯の炉の火入れ式で
「作為的なものの一切ない、悠揚で大きなものを感じさせる点前」(慈雨の音・新潮文庫版P284)
に感銘を受けたことを思い出します。

上には茶人・千利休が作ったとされる茶室「妙喜庵(待庵)」の写真を引用しました。食事をしていたのは鶏すき屋でしたが、熊吾は茶室でホンギと向き合っているような気分になっていたかもしれません。

大阪駅前の開発で牛ちゃんが移転

熊吾は新しくできたフランス料理店「ラ・フィエット」に木俣製菓のチョコレートを売り込んだり、森井博美の飲食店を相続人になりすました詐欺師から守るため、民生委員にかけあったりと忙しい生活を送っていました。そんなある日、ひさしぶりに大阪駅前の阪神裏にあった「牛ちゃん」に立ち寄ります。

下には後に大阪第一ビルなどが建てられる阪神裏周辺の画像を再度、引用させていただきました(天の夜曲の風景その3・参照)。こちらの一帯には磯辺のビリヤード場・ラッキーなどもあり、熊吾がたびたび訪れるエリアでした。

出典:大阪駅前第一ビル公式サイト、大阪第一ビルの歴史(VOL2)、大阪駅前市街地改造事業が行われる前の梅田繊維街 (大阪駅前第一ビル振興会20周年記念誌より)
https://www.1bld.com/history/history_02.html

ここでは
「ひょっとしたら『牛ちゃん』も立ち退いてしまっているかもしれない」
と糖尿病による喉の渇きを覚えながらお店に向かっている熊吾を置いてみましょう。

テールスープのおじやを註文

近くに行ってみると「お店の前には屋号を書いた大きな提灯が下がっていて、客の笑い声も聞こえた」
とのこと。
熊吾はほっとして「牛ちゃん」に入ります。
牛ちゃんの主人「この店は十月半ばには立ち退かにゃいけんのです。三年後には桜橋の北東の角に第一号のビルが建ちます。しばらく遅れて、その東隣に第二号のビル、そのまた東に第三号のビルというふうに建設がつづくそうです。・・・・・・敗戦後の闇市の時代からバラックを建てて商売をつづけてきた『先住民』やないけん、ビルのなかの一店舗を貰う条件からは外れてるそうでなァし。・・・・・・立ち退き料で、べつのところに店を出すことにしましたわい」

熊吾は、闇市の時代からの良くも悪くもなじみの風景がなくなることに対して「ひとつの時代が終わった」
と考えます。下に引用させていただいたように、昭和45年には大阪駅前第一ビルが完成し、多くのお店がこちらに移って営業を再開していました。

出典:大阪駅前第一ビル公式サイト、大阪第一ビルの歴史(VOL1)、昭和45年7月、大阪駅前第1ビルの高さは他のビルとほぼ同じで歴史を感じさせます。
https://www.1bld.com/history/index.html

牛ちゃんの主人「・・・・・・牛のしっぽのとこの肉で取ったスープもお勧めです。欧米でいうところのオックステールスープっちゅうやつやけん、大将の口に会いますでなァし」
熊吾「・・・・・・我儘を言うようじゃが、そのスープでおじやを作ってくれるとありがたいがのお」

出典:写真AC、オックステールスープ
https://www.photo-ac.com/main/detail/1232537&title=%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%97


上に引用したのは美味しそうなオックステールスープのおじやの写真です。ここでは体調のせいで苦く感じるウィスキーを飲むのを止め、優しい味のおじやをゆっくりと食べる熊吾の姿を想像してみます。

昭和42年11月ごろの出来事

伸仁はページボーイのアルバイトをするため、多幸クラブに面接を受けにきます。房江は厨房で新聞を読みながら伸仁の面接が終わるのを待っていました。

「新聞の社会面には『三派全学連』とか『羽田闘争』とかの文字があった・・・・・・十一月十二日の佐藤栄作首相の訪米を阻止するデモには三千三百人もの学生が参加して、三百人以上が検挙されたと記事には書かれていた」

出典:中日新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chunichi1967-11-13-1.jpg

上に引用させていただいたのは羽田闘争の時の写真です。房江が読んだ新聞にもこのような写真が掲載されていたと思われます。房江は以下のようにつぶやいていました。
「写真に写っている学生たちのデモ隊はヘルメットをかぶって太い棒を持っている。死人が出てもおかしくない。学生たちは警察の機動隊と命がけで闘おうとしているのか?なんのためにだろう。」

房江は、大学生になった伸仁がこのような危険な運動にかかわることを心配していたかもしれません。

柳田元雄の夢

十二月半ばの雪がちらつく寒い晩、柳田元雄社長がシンエー・モータープールにやってきます。
伸仁に追手門学院大学のゴルフ部員にアルバイトを斡旋して欲しいとのこと。また、以下のようなことも語りました。
柳田「さっき雪を見ながら、自分のゴルフ場がオープンしてからせめて五年間は生きてたいと思うた。出来立てのほやほやのゴルフ場が押しも押されもせん名門コースとして評価を受けるようになるには三十年かかる。それまで生きてられるわけがない。そやけどせめて五年間は自分のゴルフ場のあちこちを、ここは日当たりが悪いから芝の種類を変えようとか、あそこのバンカーをもっと大きくしようとか、このグリーンにはもっと傾斜をつけようとか、あれこれ工夫しながら、お客の邪魔にならんようにボールを打って、もう金策のことなんかに煩わされずに五年間を生きられたら、この柳田元雄は人生に勝ったと満足して目を閉じられる。そう思うたんや」

下には大正時代に完成し、柳田社長も通った(長流の畔・新潮文庫版P14など)「茨木カンツリー倶楽部」の写真を引用させていただきました。柳田の理想とする「名門コース」とはこちらのようなコースだったでしょうか。

出典:あまがさきアーカイブズ絵葉書データベース,PCD、[茨木カンツリー倶楽部絵はがき]、大正12~昭和初
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/pcd/watch.php?p=0000001203

房江は「柳田の色白で輪郭の鮮明な顔立ちを見て、この人はこんなに整ったきれいな容貌の持ち主だったのかと房江はいっとき見惚れた」とあります。
房江「あと五年どころか十年は生きはります・・・・・・柳田社長は長命な人のお顔です。私は人相見やありませんけど、長命な人には顔の骨格とか目鼻立ちとかに共通するもんがあるということを教えてもらいました。柳田社長にはそれがみんな揃ってます」

昔、房江が働いていた料亭「まち川」の女将が贔屓にしていた評判の八卦見が
「どんな骨相が長寿を示すのかお見せしようと言って、江戸初期に中国から来たという本を見せてくれた」とのこと。上には江戸時代の人相占いの本の写真を引用させていただきました。写真左の人相画から柳田の顔をイメージしてみましょう。

デコボココンビがつくる絶品料理

昭和42年の大晦日と昭和43年元旦は藤木美千代が休暇のため、房江とタネの二人で出勤しています。
タネ「きょうのお昼はほんまに中華丼にするのん?」
房江「うん、八宝菜を玉子でくるんでご飯に載せて、餡をかけたらええだけやから、らくやろ?若い人らも喜ぶし」
「予算の都合で、中華丼に使える食材は、玉子、豚肉、椎茸、にんじん、玉葱、白菜の六種だった」とのこと。中華丼を房江が天津飯風にアレンジした料理だったでしょうか。下には、天津丼の写真を引用させていただきました。

出典:写真AC、天津飯
https://www.photo-ac.com/main/detail/2951322&title=%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E9%A3%AF

タネも多幸クラブの厨房になじみ、房江とともに「デコボココンビ」と呼ばれるようになっていました。下ごしらえしかしようとしないタネに、料理も手伝うようにときつく言っていると、ホテル客用の厨房から料理人たちが覗きにきます。
料理人「きょうは藤木さんが休みで、松坂のデコボココンビだけやから、ボコさんはデコさんに顎で使いまくられるでって言うてたら、案の定や」
房江「私がデコで、タネさんはボコ?」
去年入社した料理人「松坂のおばちゃんは背が高いからデコで、タネさんは背が低うてコロンとしてるからボコということに決定したんです」
房江「私のことを女ボスと呼んでるって、ほんま?」
洋食係のコック「ふたりをこき使いながら、椅子に坐って煙草を吸うてる姿は、まさしくボスですよ」

旅行などの情報

マヅラ喫茶店(大阪駅前第一ビルBF1)

「大阪駅前第一ビル」は当時としては最先端の高層ビルで「牛ちゃん」の店主が立ち退きをした後の昭和45年(1970年)に完成します。闇市の時代から商売をつづけてきたお店はビルの中に移転しますが、「マヅラ喫茶店」もその一つでした。

ジョニーウォーカーのレトロなマスコットを目印にお店に入ると、上に引用させていただいたような宇宙船のような内装がお出迎えしてくれます。こんがり焼いたパンで挟んだ絶品のサンドイッチや、銀色の皿にのった昔ながらのナポリタンなどの人気メニューをいただきながら、非現実の世界へのトリップをお楽しみください。

基本情報

【住所】大阪府大阪市北区梅田1-3-1大阪駅前第1ビルB1F
【アクセス】大阪駅から徒歩約7分
【関連URL】https://www.1bld.com/shopguide/gourmet/10361/index.html

和牛炙り焼割烹せんりや

熊吾が「牛ちゃん」で食べたような「テールおじや」を味わいたくなったら大阪府豊中市にある「和牛炙り焼割烹せんりや」さんに行ってみてはいかがでしょうか。コラーゲンたっぷりのスープに柔らかい牛肉が入った「和牛テール雑炊」を宴会コースの〆や単品料理として提供されます。

精肉店直営のためA4・A5ランクの和牛をリーズナブルな価格で食べられるのが魅力です。ほかにも「牛炙りすき焼き御膳」や上に引用させていただいた「牛炙りステーキ御膳」といったボリューム満点のランチメニューも人気があります。

基本情報

【住所】大阪府豊中市新千里東町1-3せんちゅうパル1F
【アクセス】千里中央駅から徒歩で約1分
【公式URL】https://kappo-senriya.gorp.jp/