宮本輝「長流の畔」の風景(その3)
追い詰められる房江
房江や伸仁とやり直したい熊吾は何度もシンエー・モータープールに足を運びますが、拒絶されたり間が悪かったりで状況はいっこうに改善しません。また、モータープールには松坂板金塗装の東尾が現金化した不渡手形の取り立て屋がやってきます。追い詰められた房江はある決意を抱いて城崎温泉に向かいました。
ケネディ大統領の事件
「俺はもう一ヵ月もシンエー・モータープールに帰っていない。帰りたくても帰れないのだ。あれから四、五回、足掛け六年暮らしてきた自分たち一家の住まいに行ったが、伸仁は父を拒否していることを全身で示すかのように体中をこわばらせていて、決して目をあわそうとしない。話しかけても返事をせず、きつい目をあらぬほうに注ぎつづける」
十一月の土曜日の朝、モータープールの事務所に一人でいるはずの伸仁と2人だけで話をするため、シンエー・モータープールに出かけます。ところが、その日は何か事件があったらしく、伸仁は居宅としている2階で房江とともにテレビを見ていました。熊吾が2階に上がって行くと、
伸仁「ケネディ大統領が暗殺されてん」
熊吾「暗殺?死んだのか?どこでじゃ」
伸仁「テキサス州ダラスでパレード中に撃たれてん。容疑者は捕まったそうや・・・・・・」
出典:Walt Cisco, Dallas Morning News, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JFK_limousine.png
上に引用させていただいたのは当日のケネディ大統領のパレードの様子です。ここではニュースに釘付けになる伸仁の姿と、2人で話ができなかったことを腹立たしく思う熊吾の様子を想像してみましょう。
黒木の迷い
十一月のある日、熊吾は大阪中古車センターで黒木博光と待ち合わせをしていました。
ハゴロモの中古車を見ながら
黒木「ええのんばかりが揃ってますなあ。佐田もだいぶ中古車のことがわかってきよりましたなあ」
佐田とは「中古車のハゴロモ」で最初に雇った若い社員でした(満月の道の風景その1・参照)。
熊吾「やっと仕入れが出来るようになってくれたが、あいつが買うてくる中古車は値が張るんじゃ。どれももう一万円ほど安う仕入れてくれたら、ハゴロモはちゃんと儲けが出るんじゃが・・・・・・」
佐田が仕入れた車の中には「パブリカ大阪北」が販売した初代パブリカもあったかもしれません。下にはトヨタ自動車公式サイトの投稿からパブリカの写真を引用させていただきました。
黒木「手前勝手な虫のええ相談がありまして」
黒木によると「松坂板金塗装」の東尾社長は板金塗装だけでなく車の機械修理にまで事業を拡げようとしていて、ついていけないとのこと。
熊吾「虫のええ相談ちゅうのはなんじゃ」
黒木「私をハゴロモに戻させて下さい」
熊吾「その相談には乗れんのお。黒木博光はハゴロモにとっては大事な社員じゃったが、いまは雇う余裕がないし、お前が戻って来たら、せっかく仕事を覚えかけちょる佐田の士気が下がる。・・・・・・ここでエアー・ブローカーをやりながらハゴロモの売り物も仕入れてこい。その中古車が売れたら儲けの三十パーセントを払うてやる」
孫六兼元が戻る
黒木と話していると「背の高い猫背の男が門の前に立って事務所のほうを見ていた」「骨ばった体つきに見覚えがあった」とのこと。熊吾が経営する中華料理店でコックをしていた呉明華でした(血脈の火の風景その2・参照)。二人はお互いの近況を報告したあと以下のような会話をします。
呉「大将は海老原太一という人を知っていますか」
熊吾「海老原のことはようしっちょる。昔、わしの会社で働いちょったんじゃ。郷里がおんなじでのお
呉「自殺したよ」
熊吾「それも知っちょる。新聞で見たんじゃ」
呉「私は海老原さんから松坂熊吾さんに渡してくれと頼まれたものを預かったよ・・・・・・私が預かっているのは日本刀よ。・・・・・・海老原さんが自殺する五日ほど前に店に来て、私に預けていったよ。松坂さんにお返しすると伝えてくれって言ってね。・・・・・・」
呉明華が預かった日本刀は「関孫六兼元」という名刀でした。下には関鍛冶伝承館で展示されている孫六兼元の刀剣の写真を引用させていただきました。孫六兼元の作品はこちらの写真のように「三本杉」と呼ばれる刃文が入っているのが特徴の一つです。
熊吾は海老原太一が刀を返却した理由について以下のように考えました。
「あれは俺が海老原に買ってもらったのだ。いや、買ってもらうという形式のうえで、海老原が井草正之助から盗み取った大金を帰してもらったということになる。だが、海老原にすれば、松坂熊吾から盗んだも同然だと考えたのかもしれない。・・・・・・」(天の夜曲の風景その3・参照)
「自殺を覚悟した海老原にとっては、財産も地位も社会的立場も、もうなんの役にも立たない。世話になった人への恩義に報いたいという思いに襲われて、あの名刀を返そうと考えたのかもしれない。・・・・・・」
年末年始は家族で?
「今夜(12月30日)から正月の三が日は、妻と息子の住むシンエー・モータープールの二階で過ごそうと思った」
熊吾は馴染みの寿司屋で握ってもらった寿司を手土産にします。
「ほとんどの局はことしを回顧する番組を放送していて、そのどれもがケネディ暗殺の特集だった」
とあります。ただ、
「事件の当日に観た狙撃の瞬間の映像はなぜかまったく映らず、大統領のパレードが通過したコースと、犯人のオズワルドという青年が待ち構えていたビルの見取り図と、その青年がジャック・ルビーという男に腹を撃たれる瞬間の映像ばかりが何度も繰り返され・・・・・・」
とのこと。
テレビに映っていたのは下のような見取り図だったと思われます。
出典:Walloon, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:DealeyPlazaAerial.jpg
熊吾は房江に謝ろうと階下に降りた房江を追っていきます。
房江「コートは?」
熊吾「二階じゃ」
房江「きょうは寒いから、来て帰らな風邪をひくわ。私が取ってきてあげるから、ここで待ってて」
家には泊めないという房江のかたくなな態度に怒りを抑えきれなくなった熊吾は、房江の頬を平手打ちします。
熊吾「わしはもうほんまに戻ってこんぞ。それでええんじゃな」
阪神裏「ラッキー」へ
正月をモータープールで家族と共に過ごす予定だった熊吾は行き場を失い、久しぶりに阪神裏のビリヤード場「ラッキー」(花の回廊の風景その1・参照)に立ち寄ります。「ラッキー」に所属する上野栄吉は「伝説の玉突き師」になっていて、大金持の個人レッスンのため熱海の別荘にいってきたところでした。
そこには台を三台並べたビリヤード室があったとのこと。下には日光田母澤御用邸紀念公園の御玉突所(ビリヤード室)の写真を引用しました。
出典:Adam Jones from Kelowna, BC, Canada, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Billiard_Room_-_Nikko_Tamozawa_Imperial_Villa_-_Nikko_-_Japan_(48054486313).jpg
上野「大将、いやに気になってることがありまして、大将と逢うたら訊いてみようと思てたことがあるんです」
熊吾「なんじゃ」
上野「あれは何年前やったかなぁ。五、六年目の寒い日です。大将は手紙の封筒に海老原太一様って私に書かせたことがあります。確か宛先は西宮市でした。・・・・・・私はそれを名古屋駅の構内のポストに入れたんです・・・・・・あの海老原太一は、自殺したエビハラ通商の社長ですか?」(花の回廊の風景その5・参照)
熊吾「ああ、そうじゃ。海老原は、昔、わしの会社で働いちょったんじゃ」
上野「・・・・・・この私も自殺の片棒をかついだことになるということかなと、ふっとそんな気がしまして」
熊吾「・・・・・・海老原はあれを読んだあと、すぐに焼き捨てたそうじゃ。上野栄吉にはなんの累も及ばんけん心配するな」
その頃(昭和33年ごろ)、熊吾は海老原太一が井草に熊吾の金を横領するようにそそのかした証拠(領収書代わりの名刺)を入手していました。太一を怯えさせてやろうと考えた熊吾は、見知らぬ人(寺田権次)の字で「名刺 有ります」とだけ書かれた手紙を送りつけたことを思い出します。また、「関孫六兼元」の件に続いて海老原太一の話が出たことに関して何か思うところがあったかもしれません。
房江たちに謝ろうとしたが・・・・・・
熊吾は房江たちに謝るため、タクシーでシンエー・モータープールに戻ります。夜の十一時半でしたが
「(房江は)事務所で伸仁に知られないようにして酒を飲んでいるだろう。・・・・・・伸仁も蒲団のなかでラジオを聴いている時間だ。ディスクジョッキーとかいう若者に人気の番組だ」
とのこと。
少し時代は下りますが、上には昭和42年に放送開始の深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」の初代パーソナリティー・糸居五郎氏の貴重な音声を引用させていただきます。
ここでは、酔いつぶれた房江が市電のレールの上で動けなくなったという報告を受けた伸仁が、ラジオも止めずに慌てて飛び出していくシーンを想像してみましょう。タクシーからは市電のレールの周りにパトカーが停まっているのが見えます。そこでは泥酔した房江が伸仁と警官に支えられていました。
昭和38年の年末の風景
房江と伸仁は2人で大晦日・正月を迎えることになります。下には昭和38年のNHK紅白歌合戦のオープニング映像を引用させていただきました。ちなみにこの年の紅白は「男はつらいよ」で大ヒットする渥美清さんが聖火ランナーを演じるなど見どころが多く、歴代最高となる81.4%という視聴率を記録したとのことです。
「長流の畔」には大晦日の夜のシーンはありませんが、上に引用させていただいたような映像を見ながら房江と伸仁が2人で静かに過ごす光景をイメージしてみましょう。
生まれ変わった房江
熊吾が社長名義だった「松坂板金塗装」は大口の取引先が倒産し高額の不渡手形をつかまされました。東尾がその手形を売って雲隠れしたため、モータープールには手形の取り立て屋がひんぱんにやってくるようになります。そして、伸仁は部屋にいることを悟られないように押し入れの中で勉強をする日々が続きました。房江の心は不倫が発覚した日から「驚き、嫉妬、悲しみ、あきらめ」と変遷し「いまは、あきらめのなかにいる」、そして「あきらめたまま生きつづけるのはいやだ」と思うようになります。
ある決心をして城崎温泉へ向かった房江は、電車から円山川の景色が見えてくると
「円山川はほんまにええ川や」
とつぶやきます。
「少し膨れあがれば堰を切るという寸前のところでいつも静かに日本海へと流れつづけている。葦が群れて、そこでは水鳥が巣を作っている。きっとたくさんの川の生き物が隠れているのであろう。」
下には河川敷に葦が生える円山川周辺のストリートビューを引用させていただきました。
睡眠薬での自殺を決心していた房江は、こちらの風景を見ながら以下のようなことを考えていました。
「母に手を引かれて川べりで遊んでいる幼い自分を思い描いた。母の顔は知らない、写真も残っていない。せめて母の顔だけは知っていたかったな」
最後の晩餐として鰻重を選んだ房江は、城崎温泉のお気に入りの鰻屋「山形食堂」に入ります。
食堂の主人「これはこれは、久しぶりですな。」
房江「こんな時間からよろしいですやろか」
食堂の主人「ええ、かめしません。きょうはええ鰻でっせぇ。さばきから始めますから焼き上がりには時間がかかりますけど、お客さんは先にお酒ですな」
房江「はい、冷やのコップ酒でお願いします」
「漆塗りの長方形の器には、ご飯の上に蒲焼を載せ、その上にご飯を薄く敷いて、さらに蒲焼を載せてあった。鰻は前に食べたものよりも大きくてぶ厚かった。」
とあります。
房江「こんなに食べられしません」
上には漫画家・はらたいらさんが命名した「川八」さんの2段重ねうな重「かくれうなぎ」の写真を引用させていただきました。房江が食べた鰻重もこちらのようにボリューム満点でした。そのおかげで、服用した睡眠薬の効き目が弱くなり、房江は死なずに済みます。
以下は退院した日に交わした麻衣子との会話です。
房江「きょうは日曜日やったん?私のなかからはカレンダーが消えてしもてるわ」
麻衣子「きょうは昭和三十九年四月二十六日の日曜日。一九六四年や。秋には東京オリンピックや・・・・・・昭和三十九年四月二十二日の午後五時に松坂房江さんは死んだが、六時間後にまた生まれた」
旅行などの情報
兵庫県立コウノトリの郷公園
退院の日、麻衣子と一緒に乗ったタクシーからは以下のような風景が見えていました。
「脚の長い水鳥の餌の捕り方は、腹をすかせた鄙のために脇目もふらずに働く親のけなげな闘いに見えた。その日その日をみずからも生きて、子を育てるために手ぶらでは帰れない親鳥の懸命な姿は、房江には貴くて神々しくさえあった」
昭和38年当時は絶滅の危機に瀕していたため、房江が見た水鳥はコウノトリではなかったかもしれませんが、今では人工飼育や野外解放により城崎温泉の円山川でも数多くの個体を見られるようになりました。「コウノトリの郷公園」は人工飼育の研究の中心施設の一つで園内の公開エリアでは上に引用させていただいたようなかわいいヒナの姿も観察できます。
基本情報
【住所】兵庫県豊岡市祥雲寺128
【アクセス】城崎温泉から車で約20分
【参考URL】https://satokouen.jp/
NHK放送博物館
「長流の畔」では昭和38年前後のテレビやラジオの話題が出てきますが、放送の歴史にご興味がある方はNHK放送博物館に行ってみてはいかがでしょうか。下に引用させていただいたような紅白歌合戦関連の展示が見られるほか、NHKの過去番組約1万本が視聴できるライブラリー、ニュースキャスターになった気分になれるスタジオなどもあります。
また、200インチの大型スクリーンで迫力のある8K放送を鑑賞できる「愛宕山8K放送シアター」もお見逃しなく。イベントや企画展も実施しているので公式サイトをチェックしてお出かけください。
基本情報
【住所】東京都港区愛宕2-1-1
【アクセス】日比谷線・神谷町駅から徒歩約8分
【参考URL】https://www.nhk.or.jp/museum/